「スリー・ビルボード」とフラナリー・オコナー 善という名の傲慢について

スリー・ビルボード

 「スリー・ビルボードが公開されました。
 トロント映画祭にて観客賞、ゴールデングローブにおいての作品賞のみでなく、脚本賞、主演女優賞助演男優賞を受賞と監督賞を除き主要部門をほぼ総なめにした本作。本国にてアカデミー賞主要賞の最有力候補として連日報じられており、非常に期待値が高くなっていた作品です。

 本作の主要ポイントとして、「たまむすび」及びパンフレット*1にて町山智宏氏が指摘しているとおり、裏テーマとしてあるキャラクターが手にしていた一冊の本――フラナリー・オコナー『善人はなかなかいない』*2――の名が挙げられています。南部を舞台に、精緻な視点より人間の業、更にはその多くに悲劇的な末路を書いたことで短編の名手とよばれたオコナーですが、確かに本作の描写には彼女の短編に特有の、はみだし者に寄り添いその性質を深く描きながらも、読者を唐突に裏切る予測不能な展開が連続します。
 「3枚の看板」という意味のタイトルが3人の登場人物を象徴し、徐々にその裏側が見えることによる暗喩。また有るキャラクターの服装、および手にするコミックブックがその後の彼の変化を描いている――といった論評は既に多数書かれているため、本記事では主にフラナリー・オコナーの作品群の特徴について所感を述べることで、本作品の感想としたいと思います。
 以下、若干のネタバレが含まれます。

フラナリー・オコナー「善人はなかなかいない」

スリー・ビルボード

 オコナーの作風について言及する前に、いわゆる「短編の名手」とはどのようなものか、ということについて自分なりに思うところを記していきます。
 まず名短編作家と呼ばれる、例えばそれはレイモンド・カーヴァーのような、日常の一シーンを切り取り、そこに人間の悲哀ないし歓びといった感情を練り込むことでその場面自体をひとつの静止した作品として成立させるタイプの作品が挙げられます。またサキやビアスのように、強烈なラストをもって読者に鮮やかな衝撃を与えることに特化したタイプの作家群も当然その名手として名が挙がるでしょう。
 その点においてオコナーはその両方の性質を合わせ持つことで、きわめて特異な作家的位置を確立している類い希な作家の一人といえます。即ちそれは念入りに登場人物の心情に歩み寄り、悲哀や人間の愛憎といったものについて最大限の理解を示しながら、それを全て必然的な暴力とグロテスク、または突発的な出会いによって反転させてみせる、という手法を作品の中で多用しています。

 表題作「善人はなかなかいない」("A Good Man is Hard to Find")においてもそれは顕著です。
 これはある日の家族旅行中、自身のある過失と嘘によって生命の危機に立たされてしまった南部生まれの老婆の物語です。フロリダへの旅路、田舎の小汚い店にて古きよき昔を思い出した彼女は、良き時代のプランテーションをもう一度見たいと考え、家族に嘘をつきその旅路を変更します。その後車は事故を起こし、指名手配中の脱獄犯<ならずもの>に見つかってしまった一家はひとり、またひとりと殺されていきます。
 最後に残った老婆は最後の瞬間まで自分が「善き人」であることを全く疑わず、彼らに慈悲を請い、彼らも善き人なのだ、祈れば救われる、と繰り返し伝えますが、結局は<ならずもの>に撃ち殺されることになります。

 このときの「善き」というのは単純な善人ではありません。それは南部アメリカ的な人間である彼女に姿勢として染みついている倫理、ないし一段高いところから「神と自分は結びついている」と他者に話すプロテスタント的な思想の発露です。それに対し、老婆と対峙する<ならずもの>は神の存在をどうしても信じることのできない男として描かれています。このようにオコナーの短編では自分が正しいと信じて疑わないこと=善、すなわち"good"という単語が「自分の信じるものが絶対的に正しいという傲慢」、として繰り返し使用されています。
 「不意打ちの幸運」("A Stroke of Good Fortune")においては地元の南部を捨て、フロリダの夫と結婚した女性・ルビーが主人公です。彼女は夫婦生活のなか、南部の敬虔な地域では禁忌とされている避妊を行い、子供を産み育てるだけの存在として人生を終えていく親族を徹底的に見下し、都会的な生活を目指します。その目標の一つが彼女の目指す転居であり、それは彼女にとってのです。また「田舎の善人」("Good County People")においても同様、オールド・ミスの女性が南部的な風習を無視し、哲学の博士号を取得することで非南部的な強さを手に入れ、学のない周囲の人間を蔑視すること――それが彼女にとっての善であると描かれています。これらの「善」はほぼ個人個人にとっての信仰・信念と読み替えることが可能です。

 そしてオコナーの作品では、これらの信仰は断絶されます。「善人」において老婆の自らを神と同一視する言葉は<ならずもの>の心を揺るがすものの、その本質を変えるまでには至らず*3、「不意打ち」では自分が避け続けてきたもの――子供を産み、自分の母や姉のように老いていく――という悲劇に怯えていた彼女が、占い師の予見した真の幸せである妊娠を予感し、「田舎」においては自らが必死に取り繕ってきた進歩的な強さ、義足に象徴されるあとづけの仮面が、単なる田舎のばかな善人だと思っていた相手に奪われる、という展開をもって、それぞれの信じていたものが全くの裏返しになる、というのが「善人はなかなかいない」――オコナー自身はこれらの作品群を"nine stories about original sin(原罪についての九つの物語)"と称しています――という作品集です。
 彼女自身が敬虔なクリスチャンであるが故なのか、信じることそれ自体がひとつの世界の崩壊をもたらす、というのが彼女の作品の特徴であり、それは短編のみならず処女長編『賢い血*4にも顕著に現れています。こちらは1979年にジョン・ヒューストン監督にて原作にほぼ忠実に実写映画化されており、日本では未メディア化ながら昨年11月、「中原昌也への白紙委任状」にて日本語字幕付きで一度上映されました。*5

スリー・ビルボード

スリー・ビルボード

 これらを踏まえて、スリー・ビルボードを見ていきます。

20180207追記Amazon Kindleにて販売されていた本作のScriptにおいて、「善人がなかなかいない」が登場するシーンは以下のように記載されています。脚本では「ペンギン・クラシック」(廉価版ペーパーバック・レーベル)としてのみ登場しており、かつウェルビーはその内容を読んでおらず、パメラを見つめています。

 

INT. WELBY’S OFFICE - EBBING ADVERTISING - DAY

 RED WELBY’s office, window looking onto MAIN STREET and the town’s POLICE STATION. RED, a cool-looking young guy,pretends to read a Penguin Classic as he observes the office hottie, PAMELA, pass in a cute dress.
 MILDRED strides on in.

Martin McDonagh;Three Billboards Outside Ebbing, Missouri (Kindle Locations 778-1059)..Kindle Edition.

 ミルドレッドの設置した立て看板、レイプ殺人事件の未解決に対し警察署長を告発する広告というシナリオから観客が当然想定するのは悲劇の女性と悪の権力、というステレオタイプな対立構造ですが、この見方は真っ先に否定されます。病に蝕まれた署長を待つまでもなく、彼女の常軌を逸した様々な行動が矢継ぎ早に提示され、だめ押しに娘の死に対し彼女にも責任の一端がある、という真実を叩きつけるうち、観客のシンパシーの対象は巧みに彼女から――欺瞞を含んだうえで自らの道を信じ続けることが、彼女とその身の回りに崩壊の連鎖を作り出していくことで――署長へと移っていき、最終的にはその部下、サム・ロックウェル演じるディクソンへと着地します。

 彼は明確に南部の<ならずもの>を絵に描いたようなキャラクターであり本作のコメディ・リリーフ、そして真の主人公といえるでしょう。
 オコナー作品に準じていえば、彼こそが最初から本作で唯一疑いのない信仰を持っていた人物です。その傲慢さも、抱えた差別主義も彼自身はそれが善であるのだと信じ込んでおり、であるならばそれはまさしく彼にとっての善、信仰なのです。しかし署長の喪失を経て、彼のその側面は徹底的に崩壊します。そしてその後に新しく得るのは――「あっさりとした、あり得るかもしれない事件の解決」に対峙するのが彼であることに象徴されるように、署長より引き継がれた新しいアイデンティティ、すなわち善の捉え方です。彼が真の主人公であるのは前述の「不意打ち」において信仰が破壊されたルビーのように、ディクソンこそがその壁にぶちあたりながら、最終的に異なる道*6に目覚める唯一のキャラクターであるためです。そして彼の選んだ道、署長から継がれ、ディクソンの手に渡った新しい善のかたちがミルドレッドへと波及していくことを予感させ、物語は終わります。

 このラストが賛否を呼ばない、というのが本作の恐ろしいところです。本来であればディクソンの決死のわかりやすい善行が実を結び真犯人が逮捕される、またはそれが失敗に終わったとしても彼の選んだ最後の道として行われる大捕物、たとえば「スーパー!」のような爆発する倫理によって終わらせることはいくらでもできたはずなのです。それはそれで爽快、かつブラックで強烈なエンディングとなったでしょう。しかし本作の監督・脚本であるマーティン・マクドナーはそれをしませんでした。それは本作のテーマが善と信仰の伝搬であり、唯一無二の正義の押しつけではないから、だと解釈します。

 「優れた物語は、縮小できない。つねに拡大されるだけである。中にますます多くのものが見えてくるとき、いつまでも理解の及ばぬ部分を残すとき、その物語はよいできである。小説に関しては、二足す二はつねに四を超えるのだ」

――フラナリー・オコナー「物語の意味」(『秘儀と習俗 フラナリー・オコナー全エッセイ集 新装版』春秋社)

 加えてオコナーの語るように、彼らの行く末が描かれないからこそ、本作は美しく有るのでしょう。いくらでもエンターテイメントにできたはずの題材をオープンエンドにした監督のその決断と、それをあまりある演技によって支えた俳優陣の凄まじい力量に感服する、近年無二の作品でした。

*1:売り切れの為、こちら参照できておりません。追って読むつもりですが、おそらく本稿より詳しい内容が記載されているかと思います。

*2:陰陽師」様の翻訳をこちらのリンクから読むことができます。

*3:これはそもそもの悲劇の原因が彼女自身にある、という要因も強いでしょう

*4:復刊されたちくま文庫の『全短篇』にもいえることですが、こちら人物称のブレ、あまりにもな直訳等含めかなり訳文が悪いです。"A Good Man is Hard to Find"を読むのなら文春文庫『厭な物語』、"Good Country People"なら入手難度はかなり上がりますが新潮文庫版『オコナー短編集』収録「善良な田舎者」を推します。

*5:ゴリラの着ぐるみも出ます。

*6:あえて「正しい道」とは記載しません。