「KUBO」=「子連れ狼」+「スターウォーズ」 日本リスペクトアニメの源流を探る

KUBO 元ネタ

 「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」が公開されています。

 本作が10年に1度あるかないかの、映画館で見たことを自慢できる大傑作であることは視聴済の方々が各種SNSで広めていることかと思いますので、まだ見れていないという方、存在を知らなかったという方は何をおいてもとにかく劇場に行ってほしいところです。実写とCGの見分けのつかなくなって久しい世の中、よもやCGと見分けがつかなくなったフィギュアストップモーションアニメという狂気の沙汰をフルスクリーンで見られるとは思わず、その映像美と巧みな日本感、なにより物語を語り伝えることの素晴らしさに説得力をもたせるための労力、それ自体にも圧倒されました。3秒間のシーン撮影に1週間かかるという製作形態で100分間、一瞬の隙も妥協もない作品を出してこられると、もはや狂気と紙一重、以外賛辞の言葉が浮かびません。

 本作については物語上見逃しがちな伏線、について触れることにあまり意味を見い出せません。ですので、本作の製作において最も影響を与えた作品であるところの子連れ狼、また各種描写にみられるリスペクト作品、そしてそれらの引用がされている意味、について思うところを書いていきます。

 以後、致命的なネタバレが含まれます。

「KUBO」と「子連れ狼

 ……後述しますが、本作の監督トラヴィス・ナイトは「The Art of Kubo and the Two Strings」、ならびに多数のインタビューにおいて、ジブリ黒澤明と並べて本作の影響を公言しています。

 「子連れ狼」、日本ではどちらかといえば実写版のイメージが強い作品ですが、元は小池一夫氏原作・小島剛夕作画の劇画コミックです。柳生家の陰謀により妻はじめ一族を殺され家を取り潰された介錯人・拝一刀が息子・大五郎を連れ、さすらいの用心棒として各地の厄介事を解決していく――といえば聞こえはいいですが、1巻から全く容赦のないエロ・グロが詰め込まれたはっきりと大人向けのバイオレンス活劇です。基本一話完結の合間合間に上記のような過去が語られ、このさすらいの旅が柳生烈堂を始めとする柳生一族への復讐に向かう冥府魔道の地獄道であることが徐々に明かされていきます。老いた烈堂も一刀の考えに気付き、自らの子女を次々と差し向け殺害を目論むもことごとく失敗。最終的に自らも打って出、一刀、そして大五郎と相まみえる……というのが筋書きです。

  同コミックは1972年に連載開始、1987年とかなり早い段階で北米輸出がされています。実写版は1980年に「三途の川の乳母車」が「Shogun Assassin」として輸出、いずれも高い評価を受けています。監督の少年時代と人生観、本作を語る上でよく出される「正しい日本リスペクト」「わび・さび」の心はほぼ「子連れ狼」から来ていると言っても間違いではないでしょう。

KUBO 元ネタ

 映画後半に現れる「打ち捨てられた村」の描写は厄介者に荒らされた、または飢饉に襲われた描写として「狼」に頻出の描写であり、中盤の船上での描写は敵役である弁天来三兄弟の姿が”闇の姉妹”と酷似しているところも含め、原作3巻「虎落笛」の戦いそのものです。 

KUBO 元ネタ

 そして最終話、死闘の末柳生烈堂の前に子連れ狼・拝一刀は敗れ、その意志を継いだ大五郎が烈道に刃を向けるのですが、烈道はそれを防ごうともせず、斬りかかる大五郎を胸に抱き、こう呟きます。

KUBO 元ネタ

 このラストシーンには諸説あるのですが、母を奪われ、父を奪われた大五郎が、武士としての先祖ともいえる柳生烈道が差し向けるその子らを打ち負かし、ついには打ち倒す――というプロットが、「KUBO」にはほぼそのまま引用されています。

 しかし本作をご覧の方はわかるとおり、本作は単純に復讐のシナリオをなぞるだけではありません。「各地に眠る伝説の武具、そして仲間を集め、門番を倒し、宿敵を討つ」という――「指輪物語」をはじめとする西洋ファンタジー的ストーリーテリングを合体させることにより、「どう見ても日本が舞台なのに物語運びは西洋的で、かつそれらに全く違和感がない」、という超人的なバランスに着地していることがこのシナリオの素晴らしいところです。そして次に述べるように、「KUBO」の真の魅力は、本作が「単純な日本リスペクト」に終わっていないところにあります。

妖怪たちと「スターウォーズ

  続いて各種元ネタについてですが、折り紙、三味線、カブトムシ……といった日本文化については触れる必要がないと思うので、一見わかりづらいところについていくつか触れておきます。

 まずは最初の「折り紙ショー」の場面、折り紙の半蔵が戦う火を噴く鳥、コメンタリーによればこれの元ネタは愛媛県に伝わる妖怪・波山です。製作陣がどのような資料にあたったのかは不明ですが、日本人でも1%も知らないのではないでしょうか。

 巨大な骸骨の化物はもちろん「ガシャドクロ」……と言いたいところですが、ガシャドクロは戦後少年誌によって創作された妖怪であり、正式名称は歌川国芳作による「相馬の古内裏」に書かれた巨大骸骨です。そしてこれは元ネタの1つにすぎません。パペット・モーションと骸骨、といえばもちろんレイ・ハリーハウゼンアルゴ探検隊の大冒険の骸骨兵でしょう。

 続いて半蔵の城は斎藤清の絵画黄檗山 宇治」、そしてもちろん黒澤明隠し砦の三悪人。ラストシーンに明かされる半蔵の顔は誰がどう見ても「用心棒」出演時の三船敏郎……と、怒涛の日本リスペクトが続きますが、それだけではありません。中盤で深海に現れるクリーチャーはスターウォーズ エピソード4」「ダイアノーガ」

https://vignette.wikia.nocookie.net/starwars/images/7/77/Dianoga-vodran.jpg/revision/latest?cb=20070112143610

 本作の悪役である雷電はその顔の造形から同じく「エピソード4」出演時のピーター・カッシングターキン総督。そして彼の胸のプレートに描かれているのは月ではなくデス・スターと、ここにきてスターウォーズの引用が続きます。

http://www.vcinemashow.com/wp-content/uploads/2016/08/Kubo-1.jpg

 忠実に日本を舞台とするのであれば、当然これらの描写を入れる必要はありません。月からの使者、ということで当然連想されるかぐや姫を製作陣が知らないはずは――わざわざ竜も西洋のそれでなく蛇に似た東アジア式のドラゴンを用意する力の入れようですから――ありません。これらの描写は意図的になされている、と考えるべきです。そして本作「KUBO」が何なのか、を読み解くうえで非常に重要な役割を果たします。

監督にとって「KUBO」は何か

 本作についての評価記事、ないし監督のインタビュー記事では「日本が好きだから日本を書いた」という側面が取り上げられがちです。確かに本作の日本描写は緻密です。村の造形をひとつとってももちろんですが、盆祭りとその風習の意味*1、そして何より灯篭流しをここまできっちり描いた海外の作品は見たことがありません。ですがそこばかりに目をやってしまうと、本作が同時に描いている「スターウォーズ」や「指輪物語」の存在を見落とすことになります。もちろん日本が重要なファクターであることは確かです。しかしそれが全てではないのです。であれば、監督にとってこの作品は何なのか? ということについて、彼は以下のように述べています。

 少年時代、日に焼けたペーパーバック、コミックブック、すりきれたVHS――それらの拾い読みに明け暮れた。
私はそれらのとりこだった。スターウォーズトールキンギリシャ北欧神話。「子連れ狼」。
それらは私に私の目で見えないものを見せてくれた。遠い世界を想像させ、登場人物の物語を経験させてくれた。
物語は私の一部になった。そして私は、自分の物語を作り始めた。

(The Art of Kubo and the Two Strings : Forewardより翻訳)

  本作は”瞬きするなら今のうちだ”との語りから始まり、”おしまい”で終わります。「Kubo」の物語を語っている「誰か」が、作品の外部に存在しているのです。その答えもはっきりと答えています。

this is our story.i hope you make it part of your own.

(The Art of Kubo and the Two Strings : Foreward)

 これは監督による、彼自身をここまで作りあげた物語そのものへの賛辞です。その対象が子連れ狼であり、スターウォーズであり、トールキンです。本作の主人公であるKUBOが折り紙をもって自分を救ってくれた半蔵の物語を語るのと同様に、無数のハンドメイド人形を使って自分を救ってくれた物語についての物語を語っている、という本作の異常ともいえる製作形態が物語の強度を増している、とんでもない作品になっています。そして彼自身が述べるように、その物語をもってまた誰かを救いたい、という思いが深く込められています。

 ゆえに本作ラスト、KUBOは祖父を子連れ狼のように復讐によって殺すことなく、許すのです。そしてその祖父を救うのは、KUBOと村人たちによって語られる架空の物語でした。この物語が観客に対して誰かより語られる、という形式を取っているのは、洞窟の中のKUBOを母親の物語が救い、KUBOと村人の物語が祖父を救ったように――そしてこの「KUBO」という物語によって作り手達はこの物語を見ている誰かを救いたい、という確固たる意思表示です。本作を満たしているのは日本愛ではなく、物語愛と呼ぶべきでしょう。

 さて、前述のオープニング・エンディングを述べる誰か、つまるところ監督のメッセージである言葉はKUBOと同じ声によって発せられます。本作に対する日本に対する誤認識としてときおり、KUBOは苗字ではないか、という指摘があります。監督は知人の名前だと答えていますが、物語上の構成からしてわかったうえで、KUBOは過去物語に救われた存在である監督自身を投影していることから、すなわち「BOKU=僕」のアナグラムとしてKUBOと名付けているのではないか……とまで考えてしまいます。

 商業的に空前の大ヒット、とはならなかったことが非常に悔やまれますが、とにかく監督が自身の趣味と感性と労力をフル動員して打ち出した、素晴らしい作品でした。

*1:序盤墓参りのシーン、KUBOの呼びかけに父の霊が答えないのはもちろん、半蔵がまだ生きていたからです。こういうところも思い返すとうまいな、と思います。