ペニーワイズの正体、そして「怖い」本当の理由 - 「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」

ペニーワイズ 正体

 IT/イット “それ”が見えたら、終わり。が公開されています。

未見の方でもティム・カリー版「イット」の強烈なビジュアルは、レンタルビデオのパッケージやネットの画像などで記憶に残っているところだと思います。本作でもペニーワイズ、ビル・スカルスガルド演じるヴィクトリア朝のピエロが用水路に潜み、幻覚を操り、子どもたちを殺害、更に肉体的・精神的に追い込んでいく、スティーブン・キングならびに現代を代表するホラー作品です。

 原題の「IT」が指すものについては多数の意見がありますが、町山智浩氏の指摘にあるとおり「鬼ごっこの鬼」を「IT」と呼ぶことから、本作のタイトルは誤訳であるとの評が多く書かれています。が、本作のタイトルが指すのは正直なところそこまで単純なものではない、というのが鑑賞し終えての感想です。「IT」を「イット」のまま残し、更に「”それ”」としている評判の悪い邦題についても、妥当といえるのではないか? またそもそも、ペニーワイズとは何なのか? ということについて、本記事では書いていきます。

以下、最大限のネタバレが含まれます。

「ペニーワイズ」とは何か

IT ペニーワイズ

 本作を象徴するクリーチャー、ペニーワイズ。キングの原作では本名をロバート・グレイと名乗り、意味としては「一文おしみ」と訳されています。彼はデリーの街を覆い尽くす用水路を住処とし、街のあらゆる場所に現れ、ルーザーズ・クラブの子どもたちを追い回し、恐怖させます。特徴的なのは彼が姿を変える「怪物」が、その見るものによって姿を変えることです。
 最初に彼の餌食になるジョージーにはピエロの形をとったクリーチャーとして。その兄・ビルの前には地下室の闇と水、ラストにはジョージーそのものとして。体が弱い(と母親に信じ込まされていた)からと多量の薬を飲まされているエディには全身ボロボロのゾンビ、マイクには焼け死んだ家族たちの亡霊、ベバリーにはバスルームに広がる大量の血しぶき……と、各々を幻惑によって追い詰めていきます。単なるクリーチャーであればこのような手は使いません。サクサクと殺していけばいいからです。では、なぜこのような回りくどい手を使っているのでしょうか?
 本作では削除されていますが、ティム・カリー版「イット」には、ペニーワイズが自分の正体を明かした、以下のような台詞があります。手元に英語版のDVDしかないので、訳を併記します。

I'm every nightmare you've ever had.(俺はお前の毎夜の悪夢)
I'm your worst dream come true.(最悪の夢が現実になったもの)
I'm everything you ever were afraid of.(そしてお前が恐れるもの全てだ)

 ――作品を見ていればわかるとおり、ペニーワイズがとるものはその子どもたちが最も恐れているもの、であることは明白です。ビルが恐れるのはジョージーの死が確定してしまうこと、ならびに彼を殺した闇と地下に広がる黒い水。エディの恐れはボロボロになっても薬に生かされた肉体だけが動き続けるゾンビのような肉体=自分自身の末路、マイクにとっては両親を救えなかった自分の過去のトラウマがそのまま襲い掛かってきます。もっともわかりやすいのがベバリーの「髪・血・バスルーム」に象徴されるように、肉体がこどもから女性に変わっていき、望まぬまま父親の性的搾取の対象に日々体が作り変えられていく自分自身の成長への恐怖です。

 そしてベンがペニーワイズの象徴である「風船」を目にするのはヘンリーを始めとする不良グループに体を傷つけられている時、通りがかった車の中でした。彼の恐れは周囲の無関心であり――これは子どもたち全員に共通するものであり、物語の根幹に関わるペニーワイズの最重要要素ですが――「デリーという空間、そしてそこに住む大人たち」全体への不信です。ピエロとは偽物の笑顔を張り付かせた大人であり、その奥にある嘘を子どもたちは見抜いており、それがかえって大人への不信、というメタファーとして機能しています。さらにそれらを大人たちは認識しておらず、それゆえに彼らがペニーワイズの存在に気づくことはないのです。

 最後に、皆が遭遇したペニーワイズの幻覚を見ていないというリッチーです。彼は怖いものはないのか、と聞かれちらりと公園内のピエロを指し、「ピエロが怖い」と告白します。これもまた、ピエロの外見を怖い、と言っているだけではありません。劇中の彼は、ビルがヘンリーに刺され出血を伴う重症を負っている、といった非常事態であろうと基本的にはふざけ、軽口をたたき続けます。道化役、という言葉がぴったり来るように、このメンバーの中では彼はピエロなのです。この台詞は「ペニーワイズの外見がピエロであること」の補強として見られがちですが、実態としては彼もまた周りのルーザーズ・クラブ面々と同様、自分自身を恐れている、ということの独白として機能しているのです。

デリーのおとなたち

IT 大人

 さて、本作ではまともな大人が誰ひとりとして登場しません。ルーザーズ・クラブにとっては彼ら以外の同級生、上級生はもとい、教師、大人たちの誰一人が導き役として機能していないのです。エディの母親はでっぷりと太りテレビに溺れる過保護な毒親であり、ビルの両親はジョージーを失った悲しみのあまり息子の話に耳を傾けようともしません。マイクも親戚につらくあたられ、黒人であることから街中から避けられています。特筆的なのがもちろん唯一の女子であるベバリーです。父親から性的虐待を受けているであろうことが匂わされるベバリーですが、彼女を危機に陥れるのは父親に伝わった「町の人達の噂」であり、その噂がデリー中に広がっているであろうことはエディの母親からの罵倒によってより確実になります。

 これはペニーワイズが潜んでいる場所が用水路であることと関連します。街中に蜘蛛*1の巣のように張り巡らされた、子どもには見ることのできない、地下の情報網として、彼らを絡め取り、窮屈な現状から逃がさない――という街の現実が、「用水路に潜む怪物」として彼らを襲う、極めて直接的なメタファーとして描かれています。そしてペニーワイズが「IT」と呼ばれる意味もここにあります。ペニーワイズはエディの母親の過保護、スタンリーの去勢、べバリーの性的虐待、家族の死……といった、普通ではないと思いながらも口に出せない、口に出すとしてもそれこそピエロ的なジョークを踏まえなければ話すことのできないもの、の象徴でありながら*2「名前をつけられない親たちの不気味さ、真正面から語ることのできない家庭問題、そして街そのものが持っている悪意」であり、すなわちそれは代名詞を用いて「IT」としかいいようのない恐怖、存在なのです。これをただの「鬼」と訳しては、残念ながらその意味は失われてしまうでしょう。

スタンド・バイ・ミー」とヘンリー

IT スタンド・バイ・ミー

 本作はホラー版「スタンド・バイ・ミー」といわれることが多い作品です。それは少年たちが死体探しという旅路を経て、「大人になる」作品である「スタンド・バイ・ミー」と、本作の構造が非常に似通っているからです。

 映画版が有名な「スタンド・バイ・ミー」は、小説家となった主人公のゴーディが、過去の冒険の仲間、クリスが刺し殺されてしまったことから夏の日の冒険を思い起こす、という回想録の形式を取っています。ティム・カリー版「イット」も同様、大人時代の彼らが描かれ、街に再度ペニーワイズが現れたのではないか? ということを察知し、過去の自分達のペニーワイズ撃退を思い起こす、という同様の語りによって始まります。小説版の「IT」はさらにそれが顕著であり、少年時代と現代が同時系列として並行的に描かれています。

 「スタンド・バイ・ミー」は12歳の子どもたちが「線路の向こう側」という異界に旅立ち、試練としての死への対峙を行い、街に帰ってくる――という通過儀礼の物語である、ということは多数の評論が書かれているため、ここでは長くを述べません。*3 本作もまた、子どもたちが自らの中の恐れを文字通り「倒す」ことで、恐れを克服し、大人になる作品です。ゆえにペニーワイズは、「恐れさえしなければ弱いだけ」の存在なのです。
 更に原作「IT」では絶対に映像化されない描写として、さらに通過儀礼を補強する役割のイベントが2つ存在します。1つはチュードと呼ばれる、ペニーワイズの正体を知るために全員で喫煙のまねごとをする、インディアン部族の結束の儀式です。この場面は原作版リッチーの見せ場なのですが、さすがに悪影響があると考えたのか1990年版でも映像化はされていません。
 もうひとつ、ペニーワイズを倒したあと、用水路から抜け出せなくなってしまった彼らが取る完全に映像化不可能なシーンです。全員に対する愛を示すため、そして何より真の意味で彼ら自身がおとなになったことを示すためのシーンとして、ベバリーがルーザーズ・クラブの全員と、一人ずつ、セックスをするシーンがあります。正直なところ唐突であり、意味はわかりますがそこまで書くのか、とキング・ファンの間でも論争のタネになる描写です。

 これらの通過儀礼ルーザーズ・クラブのみが到達し、結果として彼らは街を出ることになります。ヘンリーをはじめとする不良グループは大人を気取るようにナイフをちらつかせ、銃を手に取りますが、彼らは自らの中のペニーワイズと向き合わず、その恐怖と同化し、取り込まれてしまいました。彼らは儀礼を終えなかった子どもであり、「スタンド・バイ・ミー」にも同様のキャラクター、エース・メリルが登場します。彼はでっぷりと太り、昔と同じ車に乗る、彼らが嫌い、捨てた街そのものになっていました。彼、及びヘンリーは自らの中にある恐怖、死と向き合い、大人としての成長を遂げたゴーディたち、そしてルーザーズ・クラブの対極に置かれています。子どもとおとなの間にいながらも、町、ないし「ペニーワイズという仕組み」に取り込まれてしまったのがヘンリーなのです。彼がテレビの声に従い、彼の手足となって動くのは単純な「幻覚」ではありません。劇中、不気味な放送を続けるテレビを見続けているのもやはり大人たちです。これはヘンリーが街=ペニーワイズ側に回ってしまったことの象徴です。

 では本作において「それ」を克服したはずのルーザーズ・クラブの前に、予告された「Part II」において、なぜ再度「それ」が立ち塞がるのか、という問題が生じるのですが、その点については「II」の公開を待つことにしたいと思います。
 総合的に「映像や演出が怖い」、というよりは、非常に倫理的に、正しく作られた作品、という一作でした。

*1:これはPart IIにて公開されるであろう「IT」の最終形態とも、もちろん関係してきます。

*2:もちろん、鬼ごっこの鬼、という意味もあるでしょう。

*3:島田裕巳「映画は父を殺すためにある」(ちくま文庫)がとても詳しいです。