「ノクターナル・アニマルズ」 ラストが"復讐"ではないとしたら

ノクターナルアニマルズ

 ノクターナル・アニマルズが公開されました。監督は「シングルマン」のトム・フォード不眠症に悩まされるアートギャラリーのオーナー・スーザンは不貞を隠そうともしない夫に悩まされながら、無人の豪邸で暮らしている。そんな日、20年前に別れた夫・エドワードから彼の手による一片の小説と共に、感想をくれないかとのメールが届く。その死と暴力に彩られた「夜の獣たち」にスーザンは不安を煽られながらも、1ページ、また1ページと読み進めていく……というのが本作のプロットです。
 さて、ジェイク・ギレンホール演じるエドワードはなぜこの小説を書き、送ったのか? というのが本作のとなりますが、監督は彼の意図、ないしラストシーンの理由について明言を避けています。であるにもかかわらず、作中明確にREVENGE=復讐、を意味するアートが登場します。これをそのまま受け取るのであればエドワードの目的は復讐となるわけですが、これはどうも飲み込みづらいところがあります。「夜の獣たち」が表しているものは、それだけではないと思われるからです。誤解を恐れずにいえば、9割の方の「ノクターナルアニマルズ」のラストシーンの解釈は私の読みとは異なります。
 彼は何を思い、「夜の獣たち」を書いたのか? またラストシーンについて、彼の行為は何を意味するのか? またオープニングに現れる太った女性たちが意味するものは? 以上について、書いていきます。以下、最大限のネタバレが含まれます。

20171118追記:海外版DVD特典映像「Making of Nocturnal Animals」において、トム・フォードが本作の根幹となるエドワードの真意、ならびにラストシーンの意味について*1語っており、その内容は本稿の記載とは異なるものです。そのため以下は一観客の解釈としてお読みください。

「夜の獣たち」とは何なのか?

ノクターナル・アニマルズ ラスト

 エドワードによって書かれた小説=「夜の獣たち」。簡単にシナリオをおさらいしておくと、ジェイク・ギレンホール演じる男・トニーが妻と娘を連れてのドライブの道中にてアーロン・テイラー=ジョンソン演じるレイを含む若者たちに襲われ、分断されたのち二人は殺害されてしまいます。そこで出会った刑事ボビーと共に犯人を追い詰めるもしらばっくれ続ける二人。ついには彼の仲間・ルーを射殺。ひいてはレイとトニーの一騎打ちとなり、トニーはレイを射殺後、銃の暴発で息を引き取る……という、現代劇ながらも舞台も相まって「悪党に粛清を」のような、一見古風な作品となっています。

 まず頭に入れたいのは、この映像は客観的ではないということです。トニーの役柄にジェイク・ギレンホールを配置したのは他ならぬ「夜の獣たち」(以下、「獣」)の読者、すなわちスーザンです。「ノクターナル」冒頭にて、エドワードらしき男がスーザンの家に立ち寄り、車から降りる描写がありました。その車(のホイール)は「夜の獣たち」にてトニーが乗っている車と同じ、メルセデス・ベンツのオールドタイプです。彼がまだ同じ車を愛用しているはず、というスーザンの記憶が映像に投影されているわけです。
 さて、スーザンは「獣」をどう読んだのか。トニーが妻と娘の死体を発見するシーンにて彼女は自分の娘に電話をかけますが、小説の中の娘と実在の娘がここであからさまな肢体の相似をもってリンクします。その後明かされるスーザンの中絶、車内で他の男=現夫・ハットンに抱かれる彼女、それを見ていたエドワード……という情景も伴い、スーザンは「フィクションを使って自分を告発している」と解釈します。つまり「獣」の中でのレイ=スーザン、トニー=エドワードとして、自分がいかに苦しめられたかを伝える手段としての小説だと。その後挿入される回想シークエンスで彼女が述べたとおり、エドワードの小説は自分自身を入れ込みがちなわけですから、自分の過去の罪が描かれている小説を読み続けるたびに彼女はさらなる不眠、そして続くハットンの不貞などに悩まされていきます。
 しかしスーザンがエドワードに感じているのは若干の優越感であることは明らかです。メールにおいて彼女が「まだ独身なのか」と書いたように、アートギャラリーのオーナーとして仕事もこなし、大きな家で金持ちの夫と暮らす生活を何年も続けてきたわけですから、一介の教師、作家志望であったエドワードに対しては――「獣」の出版はあったにせよ――若干の哀れみをもち、ラストシーンでは過去の自分のように口紅をぬぐい、指輪を外し、彼の好きだったスーザンを演じようとしています。彼が何らかの意図を持った復讐者であるならなおさらです。……しかし、食事の場に彼は現れませんでした。それはもちろん、ここまでの彼女の「獣」に対する解釈が徹底的に誤っていたからだ、と思います。トニーの正体は、エドワードの投影ではありません。

「トニー」とは誰なのか

ノクターナルアニマルズ ラスト

 「ノクターナルアニマルズ」。作中では「夜の獣たち」と訳されていますが、より厳密な意味は「夜行性の獣たち」となります。そして本書は序文にあるとおり、スーザンに捧げられています。作中トニーをジェイク・ギレンホールに演じさせたスーザンでしたが、これは "I don't really care about all this art" ――「絵のことなんかどうでもいい」というように、彼女が真のところで作者の意図を読み取ることができないことの暗示からも透かして見えるとおり、これは彼の考えを読み違えていることの伏線でもあります。本作は明確に、夜の獣、すなわち慢性的不眠症患者であるスーザン彼女自身を書いた小説、すなわちトニー=スーザンであるということを、です。「君といた時の作品とは違う」というエドワードの手紙は、本作の真相についての最大のヒントとなり得ます。

 では本来の「獣」の登場人物たちは何を表したものなのでしょうか。どこに行くのかもわからず、主導権を握れずに妻に言われるがまま旅行の支度をするトニー。彼は自分と家族に危機が迫りつつあるというのに、絡んできた若者に対してなんら有効的な手立てを打てない。ひいては話術にそそのかされて結局言われた通りの行動をしてしまう。したいことをしろといいながらもルーへのとどめを代行してしまうボビー、そして娘を殺したレイ。これらは全て、なしくずし的に他人の言うように動き、主体性を持たないスーザンの現在までの生き方そのものを象徴しています。
 自分の人生に失敗した母の言葉に反抗してみたものの、結局のところ母同様にエドワードの弱さを指摘する。抱いていたはずの夢も結局諦めてしまい、夫の不貞も認識していながらなんら言い返そうともしない。幾度も " Vagina boy ! "*2 と罵られるトニーはスーザンそのものであり、そして銃*3を持っていない略奪者であるレイは自分を低く見積もり押し込める彼女自身の闇、あるいはスーザンの母親の象徴です。またレイの髪が長く肩までのウェーブがかかっているのも、彼女を暗示させる相似です。「アニマルズ」が表すとおり、「獣」のメインキャラクターは全員がスーザンの一部なのではないか。
 結果スーザンは夢を諦め、「小説家にとっての書店員」であるところの「アートギャラリーのオーナー」の位置に甘んじ、更には夫にいい生活をさせてもらうだけの存在に成り果ててしまいました。しかし「獣」の物語ではトニーはレイを撃ち殺し、復讐を果たします。これはつまりエドワードからスーザンへの、命をかけてでも、自分を縛る母親に、身勝手な夫に反抗しろ自分を低く見積もるな――という強烈なメッセージと読み取れます。しかし、彼女はそれを理解できませんでした。

なぜエドワードは来なかったのか

ノクターナルアニマルズ ラスト

 ラストシーンの解釈について考える前に、エドワードが食事の場をなんのために用意したか、ということを整理する必要があります。エドワードは自分のメッセージをフィクションに載せ、彼女に捧げました。であれば「聞かせてほしい感想」とは今までの彼女に求めていたような、単純な批評ではありません。「自分のことばかり書く」という彼女の批評は、彼は本作にて既に乗り越えています。彼は物語で彼女の人生を変えたかったのですから、彼のメッセージが伝わったかどうかを彼女の行動を以って見極めたかった、と考えるのが自然です。
 前述の通り、彼の意図は彼女に全く伝わっていませんでした。ラストカット、彼女が母と似ているからと最も嫌っていたはずの「悲しい目」を浮かべますが、ここで暗示されているのは復讐の達成ではありません。彼女が母親と完全に同じ存在になってしまったこと、つまり彼女の人生が母親同様失敗したことを表しています。エドワードは彼女がレストランに現れた時点で、もしくは家を出たときに――冒頭のシーンでわかるとおり、エドワードは彼女の家を知っているわけですから――自分の意図が彼女に全く伝わっていなかったことに気づいてしまった。だから彼女と話すことは既に無く、ゆえに現れなかったのです。いかにきらびやかなレストランで座っていても、周りに誰もいないのであれば、それは荒れ果てたテキサスの路上で横たわっているのと同じなのです。

 トム・フォードは本作について、「この映画は、人生の中で私達がなす選択がもたらす結果。そしてそれを諦めてしまうことへの警告の物語」と述べています。単純な復讐譚であれば、前文だけで足りているはずです。しかし明らかにこの映画は「人生の諦め」が母親からスーザンへと伝染した救いのない話であり、見下していたはずの元夫は夢を成功させ、「君は何も変わっていないんだね」と憐れまれる――凄まじいインパクトのある一作となっています。アガサ・クリスティー「春にして君を離れ」の、さらなるバッドエンド版と言い換えても良いでしょう。
 しかし何より本作が復讐の物語ではない、ということだけは確かに思います。もちろんエドワードが自殺している、存在しない、というのもありえない話です。それは冒頭の男によって明確に否定されています。

 更に付け加えるなら、本作には原作となった小説が存在し、そのタイトルは "Tony and Susan"。「スーザンとエドワード」でも「トニーとエドワード」でもなく、「トニーとスーザン」です。そして本記事のタイトル画像は海外版の宣伝素材、かつBD/DVDに使われていますが、このイメージが何を意味するのか? ここまで読んでいただいた方にはわかるかと思います。補足しておくと、このギレンホールはエドワードではなくトニーです。本作中、エドワードは常にシャツの上にジャケットを着ていますからね。

「わたし、ひとりじゃないわ。ひとりぼっちじゃなんかないわ。
わたしには、あなたって人がいるんですもの」

「そう、ぼくがいる」 と ロドニ-はいった。
けれども彼は自分の言葉の虚しさに気づいていたのだった。

君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。
しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように。

アガサ・クリスティー「春にして君を離れ」 P.326)

 2017年、暫定ベストです。凄まじいものを見せてもらいました。

追記:全裸の女性たち

 本作のオープニングで度肝を抜く太った全裸の女性たちの元ネタは、もちろんルシアン・フロイドの絵画です。彼はジークムント・フロイトの孫であり、つまり本作が精神分析的である――「獣」が「エドワード」の精神を表している、ということのミスリードになっています。規約に触れてしまいそうなので一部加工していますが、Lucian Freud で検索していただければご理解いただけるかと思います。

ノクターナルアニマルズ オープニング

 

※監督コメンタリーを踏まえ、異なる解釈のゆくえについて下記記事に記載しています。

*1:ただエイミー・アダムスが語るとおり、本作はあらゆる観客が違うものを受け取る作品であること、そしてトム・フォードが構成によってそのスタイルを強固にしていることは確かです。

*2:語るまでもなく、女性性を象徴するものです

*3:語るまでもなく、男性性を象徴するものです