「散歩する侵略者」と侵略SF 「ボディ・スナッチャー」「ブルークリスマス」そして「ウルトラセブン」

散歩する侵略者

 散歩する侵略者を見てきました。原作は2005年初演、前川知大氏による演劇「散歩する侵略者」、ならびに同作をもとにした2007年発行の小説版。「侵略SF」の最新作、といっていいでしょう。しかしながら本作はこれまでの侵略映画と比較して極めて異色な作風であり、正直なところ理解に苦しむ点がとても多いのです。
 というのも、これまでに発表されてきたいわゆる侵略SFという作品群は極めてわかりやすいジャンルであるのですが、本作ではそのわかりやすさを拒絶しているとしか思えない点が多数存在します。また、とってつけたような「映画から観客へのメッセージ」のシーンが意図的におざなりに作られており、フェイクとして機能しているとしか思えないため、その構成がまた本作の理解を難解にしています。

 以下、「散歩する侵略者」「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」「ブルークリスマス」「ワールズ・エンド 酔っ払いが世界を救う」、及びウルトラセブン #45「円盤が来た」の致命的なネタバレが含まれます。

「侵略SF」とは何か?

 身近な人間が別のものになり変わられる、という作品はSF小説に多数存在します。有名なところではロバート・A・ハインライン人形つかいフィリップ・K・ディック「にせもの」、それに加えて過去4回映画化されているジャック・フィニィ「盗まれた街」でしょう。「盗まれた街」の基本プロットは、見知った周りの人間たちがある日突然感情のない、奇妙な存在になっていることに気づく。会話は噛み合わず、また自分の知らない同じような感情のない人々と夜な夜な集まるようになっていく。実は自分の知らない間に町の人々は姿形はそのままに侵略者になり変わられており、彼らは自分もあちら側に加えようと実力行使に訴えてくる……、という内容です。1956年に公開された最初の映画版「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」はすでに多数の評論*1 がなされているとおり、(1)共産主義の蔓延による非人間化、ならびに(2)当時の政界やハリウッドで行われていた共産主義者・ないしそのシンパの追放運動、いわゆる赤狩りの恐怖を同時に描いています。
 (1)について。まず冷戦下のアメリカにとって資産、権力の共同所有という思想は当時のアメリカにとって未知および恐怖の対象であり、ゆえにその思想に賛同し、広めていく対象をメタファーとしての「宇宙人」と設定することで、街全体が異質なものに変わっていく恐怖、ならびに自分が取り残されていく恐怖を映像化した作品といえます。そして(2)はそれを恐れるあまり、住民同士が互いを監視、告発し、感情を出さないように行動*2 せざるを得なくなった、当時のアメリカで行われていた赤狩り――それ自体が、すなわちソビエトで行われていた「監視社会における息苦しさ」そのものである、ということを皮肉にも表現してしまっていた、まさに当時を切り取った作品となっています。

 これを強化したのが1978年の和製侵略SF、岡本喜八監督ブルークリスマスです。世界各地でUFOを見た人間の血が青くなる現象が発生、彼らの人格はほぼ変わらず、神経質なところがなくなり穏やかになる、といった程度。だが政府は「今後脅威になるかもしれない青い血の人間」を放置しておくわけにはいかない、と優性遺伝する新人類=青い血の人間の強制隔離及び殲滅を決定。メディアを買収し情報操作を行い、反対派を粛清、ついには世界各国での大量虐殺に発展していく……というシナリオを、第二次世界大戦ホロコースト・フィルムを断片的に作品中に挿入しながら展開した明らかな反ファシズム・反体制映画です。本作は国防省に務める沖=旧人類と西田=新人類の恋愛、政府とメディアの癒着を告発しながらもニューヨーク、パリと文字通り翻弄される雑誌記者・南、更には明らかにビートルズを模したザ・ヒューマノイドなるバンドグループの来日、青い血の新人女優の降板と自殺、天本英世演ずる謎の男……など、とにかく発生する全ての事象がバラバラでありながら、テーマだけは明確なメディア・体制・ファシズム批判であるがゆえに脚本のアラが際立って目立つ作品となっています。

 さらにわかりやすさで群を抜いているのが2013年のイギリス映画「ワールズ・エンド」です。メインのあらすじは以前の記事でも述べたとおりなので再度の言及は避けますが、ニュートン・ヘイブンの「侵略」が表しているのは大企業によるあらゆる店舗のフランチャイズ=Starbucking、すなわちどの街のどのバーにいっても同じ風景が広がってしまっていることへの風刺、そしてなり変わられた人々=それらを受け入れてしまう頭がからっぽな青い血の人間、という「ボディ・スナッチャー」及び「ブルークリスマス」の合せ技として描写されていました。

 というように、侵略SFもまた、ゾンビや怪獣映画と同じくメタファーと社会情勢を非常に盛り込みやすい作品となっています。ゾンビ同様身近な人間が変わっていってしまうさま、及び自分が変わってしまうのではないか?という恐怖*3 、ならびに新人類と旧人類の対比による格差社会および差別問題への言及、そして街全体が変わってしまうことで小さな社会=世界そのものの変革を表現できる、そうしたツールとして「侵略SFジャンル」は過去機能してきました。

散歩する侵略者

 前置きが長くなりましたが、散歩する侵略者です。
 映画全体のプロットは、行方不明になった夫・真治が街を徘徊していたところを保護された、との連絡を受け病院に向かった鳴海に、真治は自らを概念を奪う侵略者であると名乗ります。明日美からは「家族」を、丸尾からは「所有」を、鳴海の上司からは「仕事」を奪い、着々と仕事をこなしていく真治と、真治の変化に戸惑いながらも破綻した関係が修復されかける兆しを見つけつつある鳴海の物語と並行し、侵略者仲間である天野および立花あきら、そして週刊誌記者・桜井の物語が進行します。最初は冗談としか思っていなかった桜井はその仕事を見ることでまさしくかれらが宇宙人であることに確信を持ち始め、誘導装置が完成に近づく最中、宇宙人三人はついに出会ってしまいます。街全体を覆っていく不穏な空気、戦争の足音、そしてついに侵略の日がやってくる――、というものです。

 まずスタート地点より、立花あきらのシーンより本作は「成り代わりもの・侵略SF」であることが簡単に提示されます。続けて真治の病院の場面に表されているのは身近な人間が変わってしまうことの恐怖と、噛み合わない会話のスラップスティックです。まず残念ながら、ここがあまり上手くありません。小説版の鳴海は浮気されながらも真治のことを愛しく、それも付き合ったばかりの恋人のような関係を持ち続けたい、という思いが内面として強く描写されていました。

ひとまず過去はリセット。(中略)

「なあ! ちょうどよかった! 俺は鳴海をガイドにするぞ。な、これからはずっと一緒だ!」
三日前までの真治、さっき敬語だった真治、いま目の前の真治、どれも少しずつ違っている。ガイド。なんのことかわからなかったけど今はどうでもいい。「これからはずっと一緒」。甘い響きだからこそ、鳴海はどこかよそよそしく感じた。
「そうだね」
鳴海はそっと真治の手を握り返した。

…(小説版「散歩する侵略者」)

 恐らくここは会話劇としての舞台では映えるところなのでしょうが、長澤まさみのヒステリックな不機嫌さと黒沢清の画面の暗さがシーンとして非常に鈍重な空気を作り出しており、以後複数回繰り返される真治の奇行についてもただただ不快感が募っていくだけ――になってしまいます。劇中で繰り返される「真ちゃん」の呼び方についても、亭主関白であった真治をちゃん付けにすることで自分に都合のいいように関係性を再構築したい、という好意を伴ったいたずらであることが示されているのですが、映画では関係は破綻し続けながらこのような呼び方を続けているため、違和感が拭えないまま物語は進行していくことになります。*4

 また前田敦子演じる明日美から「家族」を奪ったシーンは原作版に比べ、ばっさりとカットされていました。原作ではそれに伴う家庭、母親・父親との関係の崩壊が事細かに描写されるのですが、一本の映画として成立させるには更にテーマが分散してしまうためあくまで「能力を見せる」場面としてのみ機能しており、ここは致し方ない変更点であるかと思います。
 真治は続いて丸尾から「所有」を奪いますが、ここははっきりと前述した既存侵略SFの萌芽がみられます。所有の概念を奪う、というのはすなわち共産主義であり、半ひきこもりであった丸尾は文字通り人前で反戦演説ができるほどに「解放」されますが、他の作品のようにその思想が広がることはありませんでした。真治もまたすでに所有の概念を保持しているため、丸尾の思想に共感することはありません。ここでわかるのは、この物語が既存の侵略SFの文脈には存在しない、ということです。
 概念を奪い、それによって対象ならびに自身を変えていくという行為はあくまでも本作のラスト、愛の受け渡しを劇的なものにするためだけに存在すると考えられます。が、映画版では前述の通り鳴海の感情がその行動から非常に納得し難いものになっており、残念ながらやはりここも成功しているとはいえません。更にいえば、「愛を知った侵略者の侵略の中座」という点においては残念ながら、ドラえもん のび太の鉄人兵団」という歴史的大傑作があるため、この点についても新しいものを提示できているとは思えません。

 並行して進行する、長谷川博己演ずる桜井の物語も明確に破綻しています。彼が天野を通じて見ていること、すなわち「宇宙人による侵略が着々と進行している」ということは奪われた概念に差はあれど既に鳴海の目線から書かれ続けていることであり、ここは原作にも共通する問題点ですが、観客にとっては同じことが二度語られているにすぎず、そこに退屈さを生んでいます。冒頭のスプラッタ描写、品川率いる「厚生省」を名乗る組織との接触、ならびに重ねられる銃撃・アクションは原作には存在しない描写ですが、これはわかりやすいサスペンスを無理やり埋め込むことで鳴海パートとの差異化を行うだけの機能しか物語上は持っていません。政治によるメディアへの圧力、という設定は前述の「ブルークリスマス」の変奏といえなくもありませんが、そこに「厚生省」という明らかにぼやかされた、観客が本当に政府組織なのかを疑うことを前提とした設定が持ち込まれた結果、物語のリアリティラインが分散してしまっています。「CURE」「トウキョウソナタ」で見られた黒沢清のバランス感覚が残念ながら本作では崩壊しており、破綻した脚本による混乱が連続しています。

 後半、その破綻を修正するように叫ぶ桜井の演説は「目の前の現実から目を背けることで、今ある当たり前の日常が壊れてしまう」との意図、主張を持っていますが、どうしてもとってつけたような感が否めないきらいがあります。本作では劇中登場する自衛隊や丸尾の演説といったシーンから、日常に忍び寄る戦争という裏テーマ、そのメタファーとしての「宇宙人」を読み取ることができますが、原作ではっきりと描かれていた隣国との戦争という文字が省かれ、そして日本海側に位置していたはずの舞台の街は静岡県へと移動しているため、今の日本にとっての「戦争」の持つ意味が非常に希薄になっています。

AMラジオが流れ出し、タイミングよく臨時ニュースを喋りだした、また戦争が始まるという。米軍手動で隣国への空爆が決定された。自衛隊の行う後方支援の重要な拠点として、この街も更に賑やかになるだろう。敵国の射程距離内にあるこの国も戦場になる可能性がある。十年前の西アジアのときと訳が違った。

…(小説版「散歩する侵略者」)

 日本海に面した小さな港町。大陸に近いこの町には同盟国の大規模な基地がある。この国にとって戦略的に重要な土地だ。加瀬真治は、地元の夏祭が終わると性格が一変していた。今までの記憶を失くし、町の徘徊を始める真治。

イキウメ 散歩する侵略者|KAAT 神奈川芸術劇場

  更に大きな問題点として、前述した政府「らしき」存在による宇宙人の追跡シーン、桜井への爆撃が追加されたこと、そして「本当の宇宙人による侵略の存在」を描いてしまったことにより、本作で自衛隊が行っていた行為=あくまでも対宇宙人侵略への対応として書かれてしまっており、イキウメ版が表していたテーマが一気に削ぎ落とされてしまっています。こうなってしまうと小泉今日子扮する医師による後日談も、それに付随する愛の話も虚しく響き、解消されない混乱ととってつけたようなそれらしいシーンだけが残る、寓話にもなりきれない、なんともいえない残念な話、という印象しか残らなくなってしまいます。

ウルトラセブンと「散歩する侵略者

……色々な概念が抜け落ちた人間というのはどう変化していくんだろうか、と興味が展開していって『散歩する侵略者』のアイデアの基になりました。
 じゃあその概念を奪うものは誰?となると、もうベストなのは宇宙人でしょ(笑)。どんな宇宙人か、というので思いついたのが、ウルトラセブンの「狙われた街」(ウルトラセブンは1960年代に放映された特撮テレビ番組。宇宙からやって来たウルトラセブンというヒーローが地球の侵略者や怪獣と戦う人気シリーズ)に登場したメトロン星人(略)
メトロン星人って金魚に姿が似ているでしょ。『散歩する侵略者』で最初に宇宙人が金魚に乗り移るのはそのせいなんですが、結局、メトロン星人のエピソードはそこにしか残ってない(笑)。

アーティスト・インタビュー:前川知大 | Performing Arts Network Japan

 「散歩する侵略者」の題を初めて見たとき、「ウルトラセブン(1967-1968)っぽいなあ」と思った方が複数いたようです。現に本作のタイトルは #32「散歩する惑星」#34「侵略する死者たち」に酷似していますが、元ネタは #08「狙われた街」だったようです。地方の田舎町の住民たちを煙草を使って洗脳、凶暴化させ闘争本能を高め自滅に向かわせることで侵略を優位に運ぶ……というシナリオですが、本作はどちらかといえば #45「円盤が来た」に近いといえます。

 子供の姿をとり、大船団の先発部隊としてやってきた宇宙人。仕事も生活もうまくいっていない青年フクシンに、彼はこちら側につかないかと誘惑します。更に地球に来て間もない彼に対するガイドとでもいうべきフクシンに、「散歩する侵略者」のシーンを彷彿とさせる、以下のような演説を振るうのです。

「『オオカミが来たぁー!』…、幾度も言っているうちに誰も振り向きもしなくなる。本当の狼はその隙にやってくる。こんな地球の童話を我々は知っているよ。ほら、普通の地球の電話機だ。試してご覧。私は今、宇宙人と話していると言って……、誰も信じやしないから」

 本作の脚本・監督は「狙われた街」の実相寺昭雄。彼はその後ウルトラマンマックス(2005-2006)にて狙われた街の続編、「狙われない街」も監督しています。こちらでのメトロン星人は携帯電話を使いますが、タイトル通り「狙われた街」のような侵略は行いません。「放っておけば人類なんて100年も絶たずに自滅する」と実相寺昭雄節の文明批判をうそぶき、宇宙に消えていきます。このセリフは「散歩する侵略者」天野のセリフとしてほぼそのまま引用されています。

 忍び寄る侵略の手、及びそれに対する俯瞰、対象化まで、実相寺昭雄は10年以上前に完了しています。*5 今の情勢を踏まえ、再度「侵略もの」をやるのであれば、どうしても大きな社会的メッセージを期待してしまうものでしたが、本作はどうもその域に至っているとはいえないところが多く、残念な出来になっています。

 さて、来月より「散歩する侵略者」舞台版の再公演が始まります。幾度となく再公演を繰り返している舞台ですが、本作を経て今の時代に生の役者が何を見せてくれるのか? 今度は何を変えてくるのか? 映画版が残念な出来だったことも踏まえてになりますが、非常に期待が持たれるところです。

*1:町山智浩氏がPodcast「アメリカ映画特電」にて、「盗まれた街」全映像化作品について社会情勢を踏まえて解説されています。

*2:これは1978年公開のリメイク版「SF/ボディ・スナッチャー」では感情を出さずに行動することでかれらの目をすり抜ける描写として表現されていました。言うまでもなく、「ショーンオブザデッド」のあの名シーンの元ネタです。

*3:ブルークリスマス」では自分に体に傷をつけ、変わっていないことを確かめないと安心できない、という描写があります。

*4:逆説的に、同様のプロットを用いたジョン・カーペンター監督「スターマン」の手際の良さが浮き上がります。

*5:「狙われない街」の放送は2005年12月10日。イキウメ版の初演は2005年8月ですので、厳密にいえばアイデアは「イキウメ」が先行しています。