「新感染 ファイナル・エクスプレス」――なぜ「列車」であり、「釜山」なのか?

 新感染 ファイナル・エクスプレス

 「新感染 ファイナル・エクスプレス」が公開されました。
 本作はアニメーション監督ヨン・サンホによる実写初挑戦作品ながらそのクオリティの高さから世界150ヶ国より買い付けが殺到、韓国での観客動員数は19日間で全人口の20%である1000万人を突破するなど、破竹の勢いを見せているゾンビ・パニック・アクション大作です。ソウルを発車した新幹線・KTX101号に乗り釜山に向かう父と娘。しかしその裏では全国規模のゾンビ・パンデミックが進行しており、車内にも謎のウィルスに感染したひとりの女が転がり込んでいた……。
 本作には明確に「韓国人、ないし韓国の国柄に精通していればわかる」メタファーが随所に散りばめられています。もちろんニュースをよく見ている人であれば、気付くのは比較的容易でしょう。
 それは朝鮮戦争によるソウル陥落」「MERSコロナウィルスの感染拡大」そして何より299人が犠牲になった2014年韓国フェリー転覆事故、いわゆるセウォル号沈没事故」における学生の大量死、政府の対応、ならびに船長ら乗組員の行動です。
 そしてそれら過去の事件、ならびにこれから起こり得る悲劇を最大限に表した本作は一級のホラー・エンターテイメント映画であり、いわば「韓国版シン・ゴジラともいえる一作に仕上がっています。

 以下、最大限のネタバレが含まれます。
 またネタバレなしレビュー、本作の前日譚「ソウル・ステーション/パンデミック」のネタバレレビューをねとらぼ様に寄稿していますので、そちらも合わせてご覧ください。

1.なぜ「釜山」なのか? ――列車は「南進している」

 韓国の地理は日本に住んでいるとなかなか知る機会がなく、映画では必然として主人公側を手前に写すシーン、俯瞰で眺めるシーンなど多数が存在するため、列車が実際のところ「どこからどこに動いているのか」をイメージできる観客は少ないと思います。
本作のメイン舞台となる「KTX101号」はソウル発釜山行き。地図で表現すると以下のようになります。

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 そして本作中、ゾンビ・パンデミックの発生はソウルから開始されます。直接的な「日常に現れる異常」が最初に観客に示されるのは、主人公・ソグが列車に乗る直前に見るソウル駅近くの高層ビル火事、およびその娘・スアンが伸ばした手に触れる黒い灰でした。
 ゾンビ映画における最初のゾンビを知覚するポイントは、基本的に「歩き方のおかしい客がいる」「既に街がゾンビだらけになっている」「口の周りを血だらけにした人間がいる」……など、ゾンビそのものをハッキリと見せるパターンが通例となっているため、本作のように火事から始まる、それもビルの高層階から……という見せ方には作り手の意志を見ることができます。
 続いてソウル駅で起きる駅員を襲うゾンビ、全国各地での大規模な暴動、パンデミックによる混乱、政府による事態は収束に向かっているとの要領を得ない放送が矢継ぎ早に画面に映され、事態は既に取り返しがつかない方向へ向かっていることが提示されます。
 これらは明確に、首都ソウルへの北朝鮮の兵器攻撃、ならびに北緯38度線を超えてきた北朝鮮軍の脅威を意味します。1950年の朝鮮戦争においては6月25日、北朝鮮の奇襲による南進が開始されると首都ソウルはわずか2日で陥落、大統領以下政府は首都機能を南、テジョンに移します。そして本作中、KTX101はテジョン駅に臨時停車を行います。テジョン駅にて検疫・隔離処理を行うのが保健所等でなく政府の軍隊ですが、これは「ゾンビパンデミックをここで食い止める」=「これ以上の北朝鮮軍の南進を止める」という行為のメタファーになっています。
 更に映画内では、列車が到着した頃には既にテジョンはゾンビに「制圧」されていました。これは文字通り、同年7月14日のテジョンの戦いにて米軍率いる国連軍が北朝鮮軍に大敗を喫し、7月15日には再度首都機能を移転させることになった歴史的背景を下敷きにしています。

 そして最終停車先、終着駅である「釜山」です。ここは初期防衛が成功しており、韓国軍のもとウィルス感染が止められ線路は封鎖、道路は軍に監視され近づいてくる者は射殺……と、ゾンビパンデミックに対する防衛が行われているように見えます。
これもやはり、北朝鮮軍の猛攻を受け後退に後退を重ね、もう後がなくなった韓国政府が最後の首都として同年8月釜山に本拠地を移転した、という朝鮮戦争の経験、およびいつまた解除されるかもしれない朝鮮戦争の恐怖を元ネタにしています。

 本作は北から押し寄せてくる脅威、すなわち北朝鮮軍から逃げ続ける話なのです。ゆえに本作のゾンビは走ります。ロメロのゾンビが歩くのは後述のように時代に取り残された者たちのメタファーであり、それゆえ動きが鈍く、しかし圧倒的な数により世界を危機に陥れます。それに対し、本作のゾンビは凄まじい速度で韓国を破壊していく北朝鮮軍を表しているためです。

2.なぜ「列車」なのか? ――生死を分けるもの

 ここまで書いた内容だけで、本作のシチュエーションが明確に北からの脅威を形にしたものであることがわかるかと思います。しかし本作の脚本、主にキャラクター面が執拗に書こうとしていることがもうひとつあります。
それは「利己的主義者は絶対に報われない」という、一本のしっかり通った筋です。

 ファンドマネージャーである主人公・ソグは列車内パンデミック発生後、安全な車内に駆け込もうとするサンファとソンギョンを見捨て、ドアを閉めます。その後再度解錠され2人は救助されるのですが、ソグはこの後、列車連結部の座席を老婆に譲るスアンに「こういうときは自分が助かればいい」「他人を助ける必要はない」と話し、軍関係者のコネを使い自分たちのみ検疫を逃れられるようテジョン駅で別ルートを用意させるなど、自己中心的な父親としての面を明示します。
 それに対象となるように、サンファ夫妻は他者への思いやりを持った温かみのある人間として、テジョン駅での暴動では自分たちを殺しかけたソグをも助け、以後それぞれの家族を救うため、恋人が先頭車両に乗るヨングクを含め、共闘することになります。ソグはこの後のシーンより明確に「ドアを開ける側」の役割として動き始め、ソンギョン、老婆といった弱者を救うため自ら率先して危険に飛び込み、ゾンビの特性を見抜いては弱点をつくなど、ヒロイックな活躍を重ねていきます。

 こうしたソグの「改心」以後、もうひとりの人物、ヨンソクが極めて露悪的に利己的な存在として描かれ始めます。
 自分の安全のためなら他の乗客を置き去りにしても列車を出させる。自分が逃げるため乗務員を突き飛ばしゾンビの餌にする。後号車から逃げてきたソグたちを自分たちの安全車両に入れないよう他の乗客を扇動し、ドアを固定する……。彼はもうひとりのソグであり、彼の暗黒面、ダークサイドとしての存在であり、そして明確に、海上という密室上で自分の命を最優先に脱出を図ったセウォル号船長イ・ジュンソク、更にはそれらを濃縮した「エゴイズム」のメタファーです。
 自分だけが助かればいい、他人は蹴落としてもいい、それがたとえ何の罪もない女子高生とその恋人であっても。ヨンソクが野球部の応援団長・ジニをゾンビの群れに追いやり、自分だけがガラスを割って逃げおおせたのは突然現れた謎の炎に包まれた列車――、斜めに転覆したセウォル号のような車体の側でした。さらに作中ではっきりと描かれることはありませんが、パンフレットではヨンソクの正体はバス運行会社の常務とされています。あるシーンにて運転手に名刺を出そうとしたのも自分は責任者であるから便宜を図れ、というシーンの露骨な断片です。そう考えれば彼が感染後幼児退行を起こし、「家に帰りたい」「家に帰りたい」と繰り返すのにも納得できます。東映の大作映画「新幹線大爆破」よろしく、この種のビジネスマンが降車を急ぐのは仕事のためというのが鉄則ですが、終始安全と帰宅のためにエゴイズムをむき出しに奔走し続けるというのは、彼にイ・ジュンソク船長と同様の姿を見せるためでしょう。

 そして物語ラスト、キム代理からの電話によって本作で起こったパンデミックの原因のひとつがソグによる証券の市場操作であったことが明らかになります。ここまで娘や他の乗客を救うため自分を犠牲にしてきたソグですが、事故の責任者である以上、どうしても責任を取ることからは逃れ得ないのです。受話器の向こう側、混乱状態のソウルで恐らく息を引き取ったキム代理同様、ソグもまた死を持って本事故の責任を取るしかない。劇中手を洗うシーンについて、彼の手から血が落ちないのはもちろんそのメタファーです。ソグの死はもちろん観客に対する泣かせの意味もあるでしょう。しかし本作のテーマであり脚本的な必然として、彼は自分の過去の罪、そしてエゴイズムに噛まれ、死を迎える必然性があったのです。

3.不在の大統領

 さて、本作では大統領ならびに外国が一切登場しません。政府は広報のテレビ放送が数度流れるのみであり、パンデミック後の経過時間は数時間――であるため、そこまでの違和感を感じることはないのですが、前述の陥落したソウルと釜山への移転など、大統領府はどうなっているのか? という疑問がないわけではありません。
 全国規模に広まった暴動と大事故、国家存続が危ぶまれる有事の際に大統領が一切顔を出さない。また「ここは安全」「事態は沈静化に向かっている」「該当地域の皆さんは直ちに避難を」「国民の皆さんは落ち着いて、屋内待機のうえ外に出ないように……」といった二転三転する避難指示と発言。これはセウォル号事件の際ただちに適切な行動を取ることができなかった韓国海軍、MERSパンデミックの収束を宣言しながらも更に感染を拡大させてしまい撤回を繰り返した韓国政府に対する極めて明確な批判として機能しています。

 これはまさに「シン・ゴジラ」第二幕までに繋がる、「本当の有事の際、我々の政府は全く頼りにならないのではないか?」「外国から武力攻撃を受けた際、世界、それもとりわけアメリカから見捨てられてしまうのではないか?」という恐怖を描いています。
スティーブン・キングの発言に以下の要旨のものがあります。

読者、観客を怖がらせるには、人々が内心 ”こんなことは起こってほしくない”、”こんなことはもう二度とあってほしくない” というトラウマを刺激すればいい。

 1954年、空襲と敗戦、とりわけ原爆といった巨大なトラウマを背負った戦後日本にとって「ゴジラ」は明確な恐怖でした。そして今の日本生きる我々にとって、東日本大震災および津波による深刻な被害、続いての福島原発事故、ならびに有事の際に右往左往した頼りにならない政府の姿をつきつけてきたのが「シン・ゴジラ」です。
 2016年の韓国にとっては、それが直近に起こったセウォル号沈没事故であり、いつ起こるか極めて不明瞭である朝鮮半島有事、ということなのでしょう。

4.おわりに ――なぜ「ゾンビ」なのか?

 「新感染」を見た後、新文芸坐にてジョージ・A・ロメロ追悼オールナイトイベントに参加しました。流れたのは「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」「ゾンビ」「サバイバル・オブ・ザ・デッド」の三本。ロメロがゾンビ映画というジャンルを創り上げたその当時より、ゾンビは極めて時代を切り取る鏡として機能してきました。
 ロメロ作品だけを取り上げても、「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」はホワイト・トラッシュによる黒人への差別と偏見の拡大、及び政権によるその煽動。「ゾンビ」は消費絶対社会における人間としての種族の荒廃。「ランド・オブ・ザ・デッド」では貧困から兵隊になるしかない低所得者の苦悩と、彼らを酷使しながら優雅に暮らし続ける高所得層という巨悪。
 もとよりロメロが「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」の参考とした、リチャード・マシスン「地球最後の男」は古い価値観に縛られた主人公=地球最後の男が、ヤンキーとヒッピーに象徴されるビートニクのメタファーである新人類、すなわち「新しい時代」に処刑されるという極めて象徴的な作品であり、その思想は新三部作である「サバイバル・オブ・ザ・デッド」における生前の行動を繰り返し続けるゾンビ――何度殺されても殺し合いを辞めない二人の対立する「大国の長」、ならびに人肉以外の食肉に対応したゾンビの進化を示唆するエンディング――に引き継がれています。

 更に同ジャンルはパニックアクションとしても画面に常に緊迫感を保ち続けることが可能であり、また絶望的事態に直面した人々の行動を描くことでキャラクターの内面を濃密に表すこともできます。長々と書いてきたこれまでの歴史的背景を踏まえずとも、家族を省みることのできなかったソグ、幼くともしっかりとした自我を持ったスアン、サンファ夫妻の互いを思いやる心、少ないセリフにも関わらずしっかりと描かれる老婆姉妹の人間味など、粗製乱造のゾンビ映画では見過ごされがちな登場する全人物を身近に感じられる工夫ができています。
 さらに物語ラストにしっかり伏線として機能する歌も、脚本の完成度を裏付けるものでした。ゾンビ映画はポリティカルな面をいくらでも盛り込むことができながら、一級のヒューマン・ドラマ作品として成立させることができる極めて特異なジャンルとして現代まで機能しています。

 そういう意味で本作は完成されたゾンビ映画であり、同時に非常に優れたエンターテイメントとなり得ているのです。ブラッド・ピットワールド・ウォーZに爪の垢を煎じて飲ませてやりたい、文句なしの大傑作でした。