「ハウス・オブ・カード」と「野望の階段」 2つの原作と結末について

野望の階段 ハウス・オブ・カード

 「ハウス・オブ・カード 野望の階段」が第6シーズンをもって終了、のみならず最終シーズンの撮影が中断。NetFlixオリジナル作品の目玉中の目玉であった同作が未完に終わる可能性が出てきたことは――シリーズ終了後にもう一度まとめて見ようと思っていた側としては非常に残念ですが――致し方ないことかと思います。
 「ハウス・オブ・カード」はもともとイギリスの小説ですが、一部作で終わっていたそれをテレビ・シリーズ向けにさらなる脚色を加えたBBC「野望の階段 ハウス・オブ・カード」が存在し、ケヴィン・スペイシー主演版はその舞台をアメリカに置き換え、脚色の範囲を完全に超えたオリジナルとでもいうべきものに更に変更されています。もし今後完全に製作が途絶するというのであれば、少なくともBBC版の再配信を行ってほしいところです。2015年頃までは楽天ビデオにて配信されていたのですが、サービス終了に伴い現在配信は終了しているようです。国内ではメディアも販売されておらず、ケヴィン・スペイシー版同様政治用語の多数含まれる舞台劇を模した台詞の応酬を英語版で追うのはなかなか厳しいものがあります。

 以下、「ハウス・オブ・カード」全般について最大限のネタバレが含まれます。

小説版「ハウス・オブ・カード」

 最も最初の「ハウス・オブ・カード」は小説版、1989年に発表され、日本でも1990年に角川文庫より翻訳版が出ています。メインストーリーは米国版同様、フランシス・アーカード老いた院内幹事長が権力を掌握するため、その地位で得た情報・人脈・計略によりイギリス議会の頂点である内閣総理大臣を目指す、という話です。アメリカ版と明確に異なるのはこの内閣総理大臣、のように――日本の内閣がイギリス議会を模倣して作られていることから、アメリカ版と比較し、彼の戦略や目指すべきものがより身近なものとして感じられます。ケヴィン・スペイシーと比較して、本作でのフランシスは老いによる体の衰えと身近に迫る死を動機に、総選挙を契機としての権力掌握を試みます。

若い頃は鮮やかな赤い色合いを誇っていた髪も今は薄汚れた色に変わり、それをごまかすために長く伸ばしている。痩せた体は伝統的な方のスーツには以前ほどぴったりと合わず、青い瞳は年を経るに従って色あせた。
 彼の背の高さとすらりと伸びた背中は混雑した部屋でひときわ目立っていた。近くにいるものは、一日四十本吸う煙草のやにでひどく汚れた乱杭歯の見える控えめな笑みに、全く熱気が感じられないことを察したはずだ。

 アメリカ版でいうゾーイ・バーンズの位置にはデイリーテレグラフ紙の女性記者、マティ・ストーリンが置かれていますが、彼女はフランシスと共闘関係には無く、メディアにおける政治闘争や人間関係の軋轢を表現するに留まり、フランシスとはほぼ接点を持つことなくその悪事を暴いていくティピカルな探偵役として活躍します。アルコール中毒の弟を利用して首相を辞職の場まで貶め、コカイン中毒者の党広報部長を利用して対立候補の弱みを握り、新聞社との癒着によってメディアコントロールによる大衆の空気を先導したフランシスは議事堂の屋上庭園にて罪を暴かれたフランシスは彼の圧倒的勝利に終わった首相選定の当日、内務省とバッキンガム宮殿を見渡しながらその身を投げ、彼の死によって物語は完結します。
 著者マイケル・ドブズは保守党委員長の政治顧問を長年勤め上げたのち党の宣伝をメインに請け負っていたサーチ&サーチ社の副会長を務めていた人物で、政治スリラーを書くのに必要な内部情報は極めて緻密に描写されています。「この本に書かれていることの90%は実生活だ。どこの10%がフィクションかは想像に任せる」と嘯くのも納得できるほどのリアルさによって描かれる政権掌握は背筋が凍る感動を覚えます。復刊されないのは権利的な問題なのでしょうが、主役をダークヒーローとして表しているアメリカ版、また次に紹介するBBC版とはまた違ったサスペンスとなっており、絶版のままにしておくにはあまりにももったいない一作です。

BBC版「野望の階段  ハウス・オブ・カード」

 1990年イギリスにて、イアン・リチャードソン主演のテレビドラマとして制作が行われています。日本でもNHKにて1993年放映、最近では一部のケーブルテレビにてたびたび再放送が行われているようですがネット配信は行われていません。もとよりケヴィン・スペイシー版が製作に至ったきっかけが米Netflixでの同作の視聴回数が良いことから、というものですので、日本でも配信をしてほしいところではあります。
 ケヴィン・スペイシー版でみられた「画面に語りかける演出」は同作より始まります。もとよりこの演出はシェイクスピアのリチャード三世によって有名になった節がありますが、主演のリチャードソンは1960年から75年までも長きに渡りブロードウェイにてリチャード三世役を演じていた生粋のリチャード三世役者であり、うってつけの演出であったわけです。またケヴィン・スペイシーも2011年に同役を射止めています。
 同作ではミニシリーズ化に伴い、フランシスの死が回避されます。おおよそのプロットは小説版と同様ですが、フランシスとマティが性的な関係にあること、フランシスの補佐官、かつ汚れ役としてのスタンパーの登場、フランシスはファーストシーズンのラストに屋上庭園にてマティを殺害、首相となりバッキンガム宮殿に向かうところで幕を閉じます。

 続くセカンドシーズン「To Play the King」が本作の白眉といってよいかと思います。首相の座につき独自の政策を進めていくフランシスの次の敵はイギリス国王。ここにきてダークヒーローとして邁進していくことを示すかと思いきや、フランシスは本シリーズ中とにかくマティほか、これまでの計略で殺してきた彼らの悪夢に悩まされることになります。これもシェイクスピア演劇的な手法によるもので、マティが握りしめていた証拠のカセットテープの行方、国王を辞任に追い込むまでの計略に息を飲ませながらも彼の行く末が明らかに破滅であることを示しています。首相同様、無能な理想主義者が現実的な悪に蹂躙されていくのは恐ろしさと同時にある種の冷たい笑いを生み、政治スリラーとして非常に面白いものに仕上がっています。例えば舞台を日本に置き換えても、天皇と国会が対立し天皇自ら国民に政権交代を呼びかけ、各地を訪問するなどの行動を行った場合果たしてどのような事態になるのか? というフィクショナルな政治劇として想像がいく物語となっています。フランシスは皇室スキャンダルを利用して国民の信を問う再選挙により圧倒的勝利を経て再選、国を乱すものとして現国王を追放、傀儡としての若き国王の即位式をもってシーズンは終了。最終シーズン、「The Final Cut」に続きます。

 ラストシーズンの4話はファーストシーズン終盤同様、再度フランシスの破滅が暴かれていきます。権力の掌握と根回しには豪腕を示すフランシスですが、政治そのものについては有能とはいえず外国有事の失敗も伴い支持率は次第に下落。ついには機密のカセットテープが野党の手に渡り過去の悪事が明るみに出るところまで追い詰められたところに、妻エリザベスから告げられた「名誉を守ることができる秘策」のためマーガレット・サッチャー記念碑の前にて、彼女の用意したスナイパーによって射殺されます。彼女も今後のキャリアのためこれ以上フランシスに存在されても困るという、衝撃的な結末を持って「The Final Cut」は終わります。

 小説版、BBC版のいずれにおいてもこの物語はフランシスの死によって幕を閉じるほかありません。「To Playe the King」「The Final Cut」放送後マイケル・ドブズは同二作のノベライズを出版、更に2013年のドラマ版に合わせて「House of Cards」のラストをBBC版に準拠するよう書き換えましたが、それは彼の死を先延ばしにしたに過ぎません。このラストはケヴィン・スペイシー版においても恐らく同じであるかと思うのですが、彼は本日同作をクビになってしまいました。彼の死なしにどう物語を閉じるのか非常に期待が持たれるところですが、継続されるのであればおそらくはBBC版同様、彼は妻に謀殺された事実が提示され、主役は妻・クレアとなるのでしょう。つまり極めて意地の悪い言い方をすれば今回の騒動を経て書かれるネクストシーズンもまた、原作通り、ということになります。