「スイス・アーミー・マン」はコメディではない

スイス・アーミー・マン

 スイス・アーミー・マンが公開されました。「月に囚われた男」「ハードキャンディ」「インビテーション」(Netflixタイトル:「不吉な招待状」)といったホラー映画の傑作を排出してきたシッチェス・カタロニア国際映画祭の2016年グランプリ作品という前評判、何よりダニエル・ラドクリフの演じる「死体」が注目され、DVDスルーか名画座での特集公開のみが通例であった同賞受賞作の公開規模としては全国規模、と比較的大きめ――といっても東京でも1館のみなのですが――、とのこともあり、かなりの期待をして見に行きました。
 まず本作はいわゆるサバイバルものではありません。そしてコメディでも、おそらくないのです。日本語版予告にみられるような奇妙な友情ものでもなく、感動的なものですらない。下ネタやブラックジョークが交え、成長すべき人間の内面を描きながらも救いを与えない、極めて暗く、陰鬱な物語という印象を受けました。ラストシーンはさながら、とあるアニメ映画のラストに似たものを感じさせます。
 また本作は高いオリジナリティを評価されていますが、モチーフは主人公ハーク・トンプソンの名前が暗示するように、トム・ハンクス主演の無人島漂着映画キャスト・アウェイ(2000)、死体を様々な用途に活用するというアイディアは「バーニーズ あぶない!? ウィークエンド」(1988)、そして恐らくはイギリスのコメディ・ドラマ「マイティー・ブーシュ」内の1話「ミルキー・ジョーの悪夢」(2006)が下敷きになっています。

 以下、最大限のネタバレが含まれます。

死体と話すということ

 本作の特徴は何をおいても、ダニエル・ラドクリフ演じる死体が話す、ということです。当初の設定とポスターを見た際に連想したのは死体を道具として活用し続けることで島から脱出する、ベア・グリルス主演のドキュメンタリー番組――火打ち石とナイフのみを持たされたイギリスの特殊工作員が雪山・アラスカ・砂漠・無人島などの特殊地帯からサバイバル知識のみで脱出する――「MAN v.s. WILD」形式の映画かと思っていたため、死体が会話を始めたところで一気に物語の行き先が予想できなくなった……かと思うとそうではありませんでした。後述しますが、「キャスト・アウェイ」の行っていることと全く同じだからです。
 さて、死体が問うのは常にハンクの抱えているトラウマであり、解決されていない葛藤でした。スイスアーミーナイフ(=十徳ナイフ)としての死体の利便性が描写されるカットは極端に少なく、大半はハンクの父親との関係、女性とうまく話せない、世の中に迎合できない自分の問題点、といったものが彼との会話を通じて次々と浮き彫りになっていきます。オープニングに流されていた帆船に書かれたとおり、"I DON'T WANT DIE ALONE"、「一人で死にたくない」という思いがその後の彼を突き動かしていきます。
 耐えきれない孤独からいままさに自分が向き合おうとしている死、そのものの象徴である死体が流れ着いてしまったことで、ハンクは自殺を中断し、彼を生きる屍として扱うことで孤独を脱出しようと試みます。これは「キャスト・アウェイ」にて死体とともに漂着したトム・ハンクスが、無人島での唯一の話し相手としてバレーボールのウィルソンを設定したことと同じ機能を持ちます。本編中ではウィルソンの言葉はカットされていますが、海外版ブルーレイの特典にはウィルソン側の全セリフが収録されています。血の付いたバレーボールが自殺を思いとどまるよう説得したり、気弱になったトム・ハンクスを励ましたりと、漂流者の内面を描きながらその真意を問いただす、という意味で本作同様、ものいわぬ相手を通じての会話は結果として自分と向き合う行為であり、自分の抱えている問題点を曝け出すことにつながります。が、本作ではこれらの会話は彼にとって以後の問題解決に繋がってきません。ハンクが劇中で行うそれらの行為は箱庭療法によく似ていますが、自己認識と人格変容を促すにまでは至っていない、という点が異なります。
 本作での描写は彼が極めて孤独な青年であり、話したこともない初恋の相手を未だに追い続けている悲しさとみじめさを表現するに留まっています。

本作のエンディングと「エヴァンゲリオン劇場版」

 死体の言葉である「ローラに会いたい、早く家に帰ろう」という希望はハンク自身の欲求であり、それに従うように彼はローラの家にたどり着きますが、もちろん夫も娘もいる彼女はそれを拒絶します。更に携帯電話のこともバレてしまい、周囲の人間から奇妙な目で見られることに耐えられなくなったハンクは彼の唯一の存在である死体に逃避してしまいます。ここで彼が毛嫌いしていた観衆に明らかにされるのは彼のあそびの残骸であり、もちろんそれは孤独を埋めるための仕方のない行為ではあったのですが、ここで父親を含め明らかに異常者として写ってしまいます。関係の破綻した父親に見捨てられ、恋した女にも侮蔑の目を向けられてしまったハンクは、ものいわぬ死体であるマニーを前に自分の孤独を告げ、死なないでくれと願います。その舞台が浜辺である点も含めて、ここはどうしても新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君にラストシーンを想起せざるを得ない演出になっています。そして自分と向き合う装置としての機能を終えてしまった彼はもう自分の期待に沿ってくれません。

 父も他人も怖いから死体を選ぶ、という凄まじいメッセージのあるこのシーンで終わっていたらそれこそエヴァンゲリオンに匹敵する恐ろしい映画になってくれたのですが、本作はそこまでの衝撃は与えてくれませんでした。ここで冒頭のおならに話は戻ってくるのですが、本作の更なる問題点はハンク自身が死体のおならに笑うシーンがないことです。厳密にゼロというわけではないのですが、冒頭のおならはあくまでも島からの脱出に希望が見え始めたことに関する笑いでした。そのあまりのばかばかしさに笑うシーンがなければ、おそらく監督が書きたかったであろう父親との同じシーンを見て同じ笑いを浮かべることで表せていたはずの共感が描けていないため、ラストにハンクが前を見て笑うシーンに残念ながら繋がってこないのです。
 映像から読み取る範囲では、父と子が和解に至っているとは言い難く、そのために彼が海に死体を離したシーンが(もう大丈夫だ)と告げているものではなく、自分の分身である彼をこの余りにも居難い空間から逃した、というやはり救いのない結末としか受け止められず、カタルシスとして非常にグラついたどうにも居心地の悪い話となっています。彼は何も乗り越えられておらず、これからも不愉快な人間たちとの居心地の悪い地獄が待っている、というラストを象徴するように、心地のよいスキャットは「終劇」のごとく、ブッツリと切られて本編は終わります。

 映画館は終始の笑いに包まれていましたが、私が感じたのはこの空間に対しての凄まじい居心地の悪さであり、そういう意味では、久々に主人公に非常に共感できた一作でした。

「マイティー・ブーシュ」

 さて最後に、本作の元ネタとして「マイティー・ブーシュ」をあげました。あまり知名度のあるコメディではないですが、日本でもDVDが発売されています。一話完結で話は終始スラップスティック、「ミルキージョーの悪夢」はタイトル通りの夢オチです。無人島に漂着したハワードとヴィンスは孤独に耐えかね、ヤシの実で作った恋人、「ミルキー・ジョー」と「プレシャス」をそれぞれ自慢し合い、夜毎のパーティーを開きます。サルトルの話をやめないミルキー・ジョーに愛想を尽かしたハワードが口説こうとしたプレシャスを小突くと、ヤシの実の頭が破れてプレシャスは死んでしまう。バレないように死体を埋めに行くとヤシの実警察が現れヤシの実裁判が始まり、ハワードとヴィンスは断頭台で首を切られて晒し者になる、という言葉にすればするほど無茶苦茶な話ですが、設定および会話の断片に本作と似た点が随所に見られるところや、「スイス・アーミー・マン」中の草木で作ったバスに至っては確実に本作が元ネタでしょう。

ミルキージョーの悪夢

 監督・脚本・出演をこなすジュリアン・バラットは「ABCオブデス2」にて放射能で突然変異したアナグマに襲われる疑似動物ドキュメンタリークルー番組形式の、奇妙な味を持ちながらユーモアに全振りした笑えるダメホラー「アナグマ」を撮っています。

 というわけで、「スイス・アーミー・マン」でした。本作に予告通りのバカさ、またはサバイバル、感動、笑いを求めて行かれるのだとしたら、正直なところおすすめはできません。ですが久々に、良い予告詐欺映画でした。