打ち上げ花火を見たあとに――「失敗作」が本当に書きたかったもの

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」が公開されました。

シャフト×東宝の座組によって岩井俊二原作ドラマをアニメ化、全国の映画館で大々的に宣伝を打った結果試写会は酷評。それに対してイキりオタクが「お前たちにはわからない」と悦に入りはじめ、またその意見に反発するように別のオタクが叩き始めるなど地獄絵図が生じており、そのあたりの騒動は正直見るに堪えません。

 

私は初日に鑑賞し、エンドクレジットが終わるころには「これは明確に失敗作だ」と思い劇場を後にしました。しかしそれは「意味がわからない」からでも、「文脈がオタク的であり、リア充には理解できない」といった点によるものではありません。

書きたいものははっきりとわかります。

ただそれが各シーンにおいてことごとく失敗しているため非常に伝わりづらいものになっており、また観客がストーリーに集中するために排除しておかなければならないものをそのままにしている。ストーリーが進行している間も、いちいち頭の中をそれがよぎって集中できない。まずこれが「退屈」の一点目の原因です。

続いて原作である岩井俊二版「打ち上げ花火~」が内包していた、作品自体が極めて特殊な、ギリギリのバランスで成り立っている作品であること、という問題です。当時の作り手側はそのギリギリの危うさ、一歩踏み出したらすべて台無しになってしまうということを理解した上で、いかにしてそのバランスを取るかということを考え、それが作品に生かされていました。では本作においてはどうか? ということを考えてみると、それがシャフト、ひいては監督の武内宣之がこれまでどのようなものを作ってきたのか? という情報と合わさり、どこか歯車の噛み合わない非常に気味の悪い作品となってしまっている、 というのが二点目の問題です。

最後に三点目ですが、この作品を良くも悪くも歪なものにしているのは、脚本では触れられながらも画面からは巧妙に隠匿された「別の元ネタ作品」の存在が原因です。

以上について順を追って説明していきます。

以後、最大限のネタバレを含みます。

 

最低限語っておくべきだったもの

映画、小説、アニメ、あらゆる作品に共通して言えることですが、真っ先に説明しておくべきことが一つだけあります。それはすなわち「この作品が、いつ、どこを舞台に、何歳の視点で語ったものなのか?」というものです。必ずしもそうではない、という意見も当然あるでしょう。しかし本作は少年時代を舞台とした青春を描いた作品であり、受け手である我々としてはどうしても主人公への感情移入を余儀なくされます。

これはノベルゲームでいうところのループもの、すなわち主人公がある種のゲームプレイヤー=我々と同一化することで、「自分」が主人公となり変えられない状況を目の当たりにし、切迫感を持ってリセットボタンを押すことで否応無しに情動を引き起こす仕組みと同一です。

原作版「打ち上げ花火」はその点において、主人公たちをしっかり幼く描いています。短パンの体育着、炎色反応の授業、廊下に吊るされたひらがなの習字などから、舞台が明らかに小学校であるとすぐにわかります。また主人公の悪友であるところの祐介が家にあがるシーンにて、テレビにスーファミをつなぎ、スーパーマリオワールドをプレイしています。その直前のシーンでも「スト2」の話をするなど、放送当時=舞台、1993年の小学校高学年としてはっきりと描かれています。

ですが本作では時代性、学年、ともに描かれないまましばらく話が進行します。白シャツの学生服を着、自転車に乗って学生カバンを持つ彼らは明らかに「小学生ではない」ということがわかるのみで、中学生なのか、それとも高校生なのかについては中盤以降、駅のシーンを待たなければ判別できません。また彼らは「アニメキャラ」である以上、パッと見の年齢を絵のタッチや頭身から判別することは非常に困難です。1カットでも学校名、教室のプレートを見せることで苦労なく説明できるはずなのですから、この程度の配慮はあってもよかったのではないかと思います。

また時代性についても、本作にはスマートフォンが存在しません。*1現代の中学生・高校生がスマートフォンを持っていないのは明らかにそれだけで違和感があるので、海辺の町、しかも主人公の一家が釣具店を経営、地元のフリーマーケットに行く……などの状況と相まって、「じゃあこれは過去の話なのか」と思ってみれば、先述のゲームのシーンで祐介が手に握っているのは明らかにプレイステーション4のコントローラーです。

ん?じゃあ現代が舞台なのか、と思えば画面に映し出されているのはメガドライブからスーファミ中期前後のグラフィックとみられる8bit系の横スクロールアクションゲームであり、ここで「製作者側は意図的に時代をぼかしているのではないか」という意図が伝わってきます。

ですが中盤、電車に乗ったなずなと典道のシーンでなずなが松田聖子瑠璃色の地球」を歌い、「母親がよく歌っていた」と話します。ここで明確に時代が規定されてしまうため、見る側に残るのはやはり明確な混乱です。

瑠璃色の地球」は本作の脚本を手掛けた大根仁の小説版にも登場しますが、

「これ、ママがカラオケでよく歌うの。松田聖子とかいう人の歌らしいんだけど、小さい頃から聞いてるから覚えちゃった」

大根仁.打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(角川文庫)(KindleLocations1424-1425).KADOKAWA/角川書店.KindleEdition.

小説版では時代性、場所、学年について以下のように触れられているためそれほど不自然ではありません。前述のゲームも「マリオカート」とされていますが、舞台が現代であることからおそらくWii版なのでしょう。競争相手としての祐介の立ち位置が明確になり、これは悪くない表現だと思います。

かつては漁師町として、夏は県有数の海水浴場として賑わったこの町も、六年前の震災以降すっかり元気をなくしてしまった。東北に比べれば被害は小さかったし、幸いにして亡くなった人もいなかったけど、

大根仁.打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(角川文庫)(KindleLocations95-96).KADOKAWA/角川書店.KindleEdition.

中学に入ってから祐介は、あからさまになずなを意識するようになっていた。 スマホで隠し撮りした写真をフォルダーに集めていて、毎晩それを見ながらでないと眠れないと言われた時はちょっと引いたが、本当はそのフォルダーを全部送って欲しかった。

大根仁.打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(角川文庫)(KindleLocations190-193).KADOKAWA/角川書店.KindleEdition.

また本作では重要なメタファーとして「風車」が登場します。

「横から見たら平べったい、前から見たら丸い」ものであり、更に回転方向によって時間の流れを象徴できる、これもいいアイデアだとは思います。小説版では以下のように触れられています。

振り返ると、山々の稜線に大きな白い風車が立ち並んでいて、プロペラが時計回りにゆっくり回っている。 一昨年から実験的に始まった風力発電だ。なんでも茂下町の海風は常に安定していて、風力発電にはもってこいの立地らしい。 子どもの頃から見慣れた景色に、いきなりあんなにデカい風車が建って気持ち悪かったけど、今ではすっかり見慣れてしまった。

大根仁.打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(角川文庫)(KindleLocations119-123).KADOKAWA/角川書店.KindleEdition.

ここで首をひねった方は、新房昭之×シャフト作品をよく見ている方だと思います。町中に突如現れる異常な建築物、書割のような人物像など、ぎょっとするような表現を多用するのがシャフトの作風です。そのためこのような風車が突然出てきても「おかしくない」のがシャフトのアニメです。「化物語」、ならびに「輪るピングドラム」武内宣之担当回「氷の世界」に顕著ですが、一言で言えば、いたるところに異常を乱立することで目を惹きつけながら、「それらは特に気にしなくて良い」ことを伝えているのがシャフトの芸術方針だからです。逆に言えば、リアリティのある背景を描くことには向いていないスタイルとも言えます。

ですが小説版において「風車」は後に登場する「平べったい花火」同様、乗り換えた世界のおかしさを表現するアイテムとして使われています。彼らには風車が現実として見えているのです。

「あの風車、いつもあの方向で回ってたっけ?」「え、わかんない」「時計回りじゃなかったっけ?」「だからわかんないって」

大根仁.打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(角川文庫)(KindleLocations997-999).KADOKAWA/角川書店.KindleEdition.

このように「誰に」「この世界が」「どう」見えているのか、について極めて曖昧なまま物語は続き、主要人物の誰もが何を考えているのかわからないまま進行していくため、時間が経つたびに自然と登場人物への興味が薄れていきます。これが「退屈」「つまらない」とされる原因の一つです。

「打ち上げ花火」のバランスについて

前章にて「主要人物の誰もが何を考えているのかわからない」と書きましたが、これは原作が秘めている問題点でもあります。原作版でのなずなは典道にとって、終始理解不能な存在として描かれ続けます。突然50m競争を提案したかと思えば、勝った方にいうことを聞いてほしいという。家出をもちかけたかと思えばふいに帰ってしまう。夜のプールに飛び込んで息を止める。典道のセリフとして「何考えてんだよ」が頻出しますが、これは視聴者にとっても同じことです。二学期には自分がここにいないことを知っているはずの彼女は、夜のプールで典道に「次会えるのは二学期だね。楽しみだね」と嘘をつきます。これにも明確な理由は描かれないまま、なずなは徹頭徹尾、理解を拒絶する少女として物語をかき回します。

ルート1、ルート2ともに彼女の内情は「典道には」語られることがなく、夏休み中の引っ越し、という情報は教師を通じて視聴者のみに与えられます。また、彼女が何をそれだけ嫌がっていたのかという点についても情報はありません。特段この町が好きというわけでも(それなら「電車に乗っての家出」はありえない選択肢です)、彼女にとって典道や祐介が特別な存在というわけでもないからです。

そういう意味で「打ち上げ花火」は脚本として破綻していますが、これほどまでに「名作」と言われ続けるのはたった一つの理由によってです。

それは当時の奥菜恵が美しすぎる、という事実ひとつに依ります。

「打ち上げ花火」の原作は午後八時のナイトタイム・ドラマであり、メインの視聴層は当然10代後半から20代、30代男性です。彼らの「意味の分からない魔性の美少女に振り回されたい」という願望を、説得力をもった美少女である奥菜恵によって体現している。その奇跡的なバランスによってこの作品は成立しています。またそれに対し、主要登場人物である少年たちは極めて「田舎のガキ」とでもいうべき、どこにでもいる小学生、ハッキリ言って冴えない子たちがキャスティングされています。これは明確にその美を引き立たせるためであると断言できるでしょう。

奥菜恵はテレビの2時間番組から劇場で続編を上映した「パ☆テ☆オ」で1993年にデビュー、謎の美少女役として登場します。また「奥菜恵」とはこの役の名前であり、本名非公開であることから当時も「この美少女は誰だ?」とPR記事が跋扈しましたが、残念ながら映画自体が大コケしてしまい、DVDも発売されていません。ほぼ無名、と思ってもらえればよいかと思います。

更によく語られるように、本作はドラマであるにもかかわらずあくまで映画的なフィルムの質感を持った、淡いピンクがかった映像加工が全体になされています。本作では冴えない少年=視聴者と理解不能な絶対的美少女=奥菜恵を用い、いわば「存在しないノスタルジー」を書き、半ば強引に存在しない過去に共感させることで視聴者を説得する、そういった画作りに力がこめられています。

逆に言えば、このシナリオを納得させるには「見たこともない、理解不能な絶対的美少女」「強烈な画作り」の二点が必須であるということです。

 

ではアニメ版ではその点をどう処理しているでしょうか。

初めて劇場で予告を見た際、ある程度アニメを見る方であれば当然のように今回の「なずな」を見て出た名前は一つしかないはずです。

戦場ヶ原ひたぎ。言わずと知れた「化物語」のメインヒロインです。ここに明確な問題点があります。「ひたぎ」が可愛くない、ということではありません。既視感があること自体が問題なのです。キャラクターデザインの渡辺明夫は「化物語」で頭角を現す前にもアダルトゲーム業界やアニメデザインで多数活躍しており、近年でも「グリザイアの果実」シリーズなどを手がけています。

ですが残念なことにタッチが非常に見分けのつけやすい作風であるため、「全く新しいキャラクター、見たこともない美少女」の制作には向いていません。現に「グリザイア」の「榊由美子」はやはり、戦場ヶ原ひたぎと酷似しています。本作でも、左側に振り向き顎を上げるいわゆる「シャフ度」のシーン、また夢やぶれ車内にて「落下する」シーンなど、明確に過去作品を意識させるカットが(特に中盤以降)多用され、そこに目新しさは発見できません。

この点はパンフレットでも触れられており、「なずなをいかに美少女にするか」苦心した背景が語られてはいますが、残念ながらそれが成功しているとは少なくとも作品を見る限りでは考え難いと思われます。

ここが一つ目の問題点です。

更に二つ目として、奥菜恵版「なずな」の美点である「理解の不能性」について触れておきますが、こちらでもアニメ版は明確に失敗しています。

「わかっているよ。駆け落ちなんてできっこないって……」 なずながポツリと呟き、我に戻る。 電車に乗ってから、テンションが上がったり下がったり、歌まで歌っていたなずなの、久しぶりに聞く普通の声だ。「でも、引っ越す前に……夏休みが終わる前に……」

大根仁.打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(角川文庫)(KindleLocations1456-1457).KADOKAWA/角川書店.KindleEdition.

電車のシーンにて、視点がなずなに切り替わると、母親への妬み、父親の不在、「かけおち」の理由について、なずなは典道に吐露し始めます。ここで典道はなずなを「理解」してしまいます。これは祐介に隠れて自転車に乗るシーン、灯台での「なずなは俺が取り戻す」同様、本作においては典道が物語の主導権を握っていることを表しています。これは原作の「美少女に振り回されてなんだかよくわからない話」から、「あいつのことを俺が救ってやる」話へとシフトした瞬間でもあります。*2 またそのシーンの直前、なずなの視点として母親、及びその再婚相手から明確に子供として扱われるシーンがあります。親族の不理解というシーンを挟むことで、かわいそうな美少女を俺が救ってあげようという、あまり褒められたものではない展開に文字通りアクセルを切るのです。

そして以後、なずなは完全に典道にとって都合のいい、極めて性的な存在へとその姿かたちを変えていくことになります。

場面を少し戻し、トイレ前での衝立を隔てた着替えのシーンの話をします。原作版にもあったシーンですが、ここでアニメ版と明確に異なるのは2点です。

1点は典道の目には映らない、なずなが口紅を引き、女になるシーンです。あくまでも神的な「美少女」の範疇にあったなずなが、「水商売」「ガールズバー」という単語とともに夜の女に化けていくシーンですが、原作版では着替え終わったなずなの服装が黒のタンクトップに赤の水玉スカートという、ミニーマウスを模した「1993年当時にしてもとにかくダサい」、子供の背伸びでしかない服装になることに意味があります。これは小学生にはあまりにも大きすぎる衣装ケースを重そうに運ぶシーンでも繰り返し表現されているとおり、またあくまでもこれは子供が行う逃避行のままごとであるということの暗示です。

そして2点目、本作ではなずなは「白いワンピース」に着替えます。夏、麦わら帽子、白いワンピースといえばアダルトゲームにて頻出する「存在しないノスタルジー」の象徴ではあり、先にあげた「強烈な絵作り」を補完する意図を持ちます。ですが同時に、これは逆にテンプレート的な意味でのオタクの願望成就=性の対象としての存在になることを表現しています。

また次の「もしも世界」では親と友人たちにバレることなく、海の上を走る列車で非現実の世界へ到達します。その際なずなは明らかに典道を性的に誘惑し、また典道も顔を真っ赤に、To LOVEるに見られるような、アニメ的に興奮したデフォルメ顔を以てそれに応えます。

典道が都合よく世界を繰り返すたび、なずなは重ねて自分のために奉仕する、性的な対象となっていくのです。最後の世界に向かう電車*3の中、存在しないノスタルジーの象徴として原作版で使用されていたピンク色のエフェクトは窓から映るありえない空の色として流用されているのですが、意味合いも含めてどうしても性的に写ってしまいます。

次いでなずなの告げる「ここは典道くんが作った世界なんだね*4の言葉は若干の批判的な意味が含まれるセリフであるはずなのですが、どうにもさらっと流されてしまっているきらいがあります。またこの氷の世界の絵作りも全てのアイテムに波紋のような枠が描かれている程度、花火のおかしさもなんだかおかしい程度のものでしかなく、「まどか☆マギカ」で描いてきた東欧美術のコラージュや「傷物語」の赤を基調としたドラッグ的な破壊演出に比べれば、本来のシャフトが描ける1/100の力も出せていないと思います。

「別の元ネタ作品」、あるいはラストシーンについて

先述のシーンのみでなく、本作には極めて明確な性的メタファーが多用されます。

生徒たちによる三浦先生へのセクハラ、パンチラ写真のくだりは原作にも登場しますが、ランドセルを背負った小学生によるそれとキックボードを乗りこなす中学生のそれでは行為の意味が明確に変わってきます。更に追加された教師カップル同士の行為を伴う性的な会話、繰り返し描かれるなずなのスクール水着、白いワンピース、と枚挙に暇がなくちりばめられています。菅田将暉広瀬すずをキャスティングしての夏のカップル向け青春映画として見せるには極めて異常な事態でしょう。

しかし、これと似た作品が今より34年前、本作にも通じる大々的なプロモーションのもと公開され、興行的・作品的共に大成功しました。偏狭的なまでに性のメタファーをここぞとばかりに盛り込んだその作品は、角川映画の名のもと全国公開され興行収入は28億円を記録。当時の邦画としては「南極物語」に次いで2位。初主演の新人女優はアカデミー賞新人俳優賞を受賞しています。そしてその作品は奇しくも本作と同じく青春映画であり、かつタイムリープを繰り返すことで時間を捻じ曲げていく作品でもあります。

もちろんそれは、大林宣彦版「時をかける少女」(1983)です。

 

この映画についてはライムスター・宇多丸ほか、多数の評論が各所で書かれていますが、なにより性的なほのめかし、性的な視点に溢れていることは疑いの余地がありません。ラベンダーという「男性的な香り」(劇中の表現)をもつ白い煙が「丸底フラスコ」から射出され、「生理」という言葉を以て身体の不調を感じる芳山和子、保険医とデキている岸部一徳演じる男性教師が明らかにその尻を目で追っている、後に活かされるわけでもないカット、「芳山くんを抱いてくれないか」の一連の流れからくる性的に未熟者としての敗北者=堀川吾朗、深町一夫の残していったハンカチに顔を押し付ける芳山和子…など、本作に通じる「青春映画」として書くうえで明らかに必要のない性的な要素がとにかく満載です。

細田守時をかける少女」(2006)に対し、富野由悠季は最大限の賛辞を送りながらも、「高校生たちの告白したいという台詞がSEXしたいと聞こえる」と評しました。細田は「アメリカではSEXの匂いがしないと言われたんですよと言うべきでした」と発言しています。細田監督が原作を踏まえ、繰り返し脱臭したにも関わらず、作品自体が秘めている性的なメタファーは抜けきれなかった、ということでしょうか。

 

さて、大根仁の小説版にも「時をかける少女」に明確に触れている箇所があります。*5

これが前にテレビで観た、時をかける……なんだっけな? 確か同じ一日を繰り返す女の子の話だったけど、それと同じようなものかどうかはわからない。ただ、何かを願ってこの”もしも玉”を投げると……ってあれ?

大根仁.打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(角川文庫)(KindleLocations1703-1705).KADOKAWA/角川書店.KindleEdition.

本作を大林宣彦版の変奏とするのであれば、各所で意味不明、と言われ続けているラストシーンについても一定の説明がつきます。

時をかける少女(1983)のラストシーン、芳山和子は今まで自分が追い続けてきた深町一夫(=ケン・ソゴル)が未来人であることを知り、「私も未来に連れて行って」と懇願します。ですが願いは果たされず、記憶を消去された芳山和子は(どこかにいるはずの、私が好きな誰か)を求め、自分を慕っている堀川吾朗と結婚することもなく、松任谷由実の名曲の歌詞を引用すれば、すなわち「さまよい人」になります。捏造された記憶、存在しない青春の幻影を追い続け、ついには戻ってこられない。というのが「時をかける少女」のラストです。

「打ち上げ花火」の終盤、時間が静止した狂った世界で典道は「こんなおかしな場所だってなずなといられるならそれでいい」と告げます。しかしその願いは果たされず、なずなは「次に会えるの、どんな世界かな?」と、この世界での離別を決定します。「もしも」のない、花火の丸い世界へと。*6

場面が転換し、学校になずなの姿はありません。出席確認の「及川」は飛ばされ、典道もまた不在です。「時をかける少女」に沿うのであれば、典道もまた存在しない、自分がつくりあげてしまった青春の幻影である「及川なずな」に囚われついには戻ってこれなかった、不在の椅子はそのメタファーであると考えるのが自然です。

 

さて、小説版は「もしも次に会うことができたら、どんな世界であれなずなに告白する」という決心を虚空に告げるところで幕を閉じます。

ですが時系列としては書き出しが一番未来の時系列となっており、ここでは

あの時、たしかに体験した"いくつもの世界”の中で、ゆがんだ景色が見える。ひずんだ音や声が聞こえる。アイツの名前は、なずな。もし……あの時……もし……あの時オレが……もし……あの時、なずなが……もしも……あの時に戻れたら……。

大根仁.打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(角川文庫)(KindleLocations19-20).KADOKAWA/角川書店.KindleEdition.

ここまで来てしまうと、想像されるのはヒッチコックの「めまい」のラストに似たものを感じてしまいます。やはり典道は次の世界で、なずなと再会できなかったのでしょう。

自分の都合、自分の理想を妄執的に押し付け続け、それに耐えきれなかった女が文字通り「離れて」いってしまう。残された自分は永遠の後悔の中に苦しみ続ける、という後半のストーリー、更に言ってしまえば2度目の世界で闇夜に映し出される「あり得るはずのない、平べったい花火」はそれこそ「めまい」冒頭に現れるどぎついカラフルな渦に見えなくもありません。

スタッフクレジットの後、シーンはありません。原作ないし原点、この映画がここまで描いてきたものに沿う限り、典道にハッピーエンドは用意されていないからです。そしてもしも玉を幾度も使ったとされる人物がたどり着く未来は、本作においても極めて残酷な形で中盤に明示されているからです。ラストカット、大写しにされるナズナ花言葉は「私のすべてをあなたに捧げます」。文字通り、典道はなずなの幻想に己のすべてを捧げてしまった。だから学校に彼の姿は無いのです。

さいごに

冒頭、打ち上げ花火は「失敗作だ」と述べました。ここまで長々と書いてきたことをまとめれば、それは作り手たちの都合、目指しているものが全く噛み合っていないことに発すると考えています。

企画=川村元気は「君の名は。」をやろうとしたのかもしれません。

総監督=新房昭之は「打ち上げ花火」をやろうとしたのかもしれません。

脚本=大根仁は「時をかける少女」をやろうとしたのかもしれません。

監督=武内宣之は「シャフトの長編アニメ」をやろうとしたのかもしれません。

 

本作のプロデューサー、東宝の市川南は「進撃の巨人」の失敗、すなわち製作委員会による責任の分断とシステムの混乱という反省を活かし、庵野秀明新海誠という一人の作家に好きにさせることで「シン・ゴジラ」「君の名は。」を世に出しました。好き嫌いはあれど、多くの人々に日本の映画はまだやれる、と思わせた結果の興行成績だったと思います。

本作にはあの二作のような喜び、ないし希望といったものを感じ取れませんでした。

作品自体の出来によるものではありませんが、非常に残念でなりません。

 

*1:LINE社と提携しているのに非常にもったいないところです。

*2:主導権については実写版でも「手を引く」ことで表現されていますが、本作では衣装ケースをカゴに入れてしまうことで「少女x衣装ケース」の持つ歪さが消えてしまい、これもこれで失敗だと思います。

*3:「どこか違うところに連れて行ってくれるものとして電車を描いた」と竹内宣之がパンフレットで述べていますが、ここではやはり武内の参加した「輪るピングドラム」の「運命の乗り換え」を想起します。画面が歪み劇画調になることについては、児童的な願望の成就を表し、以後の世界が長く続くものではないことを暗示しています

*4:「繰り返し」が相手のため→本人のためへのシフトする作品としてはうえお久光紫色のクオリア』収録「1/1,000,000,000のキス」があげられます。ゆかりを救おうとしていたはずの学は無限回のやり直しの中、ゆかりから拒絶されます

*5:これはどちらかといえば本作の「もしも俺が!!」=細田守版の紺野真琴が発する「いっけえー!!」に呼応するものを示しているのだと思います。舞台が現代であるならば原田知世版はテレビ放映されていないでしょうし、もしそちらを示したいのであれば「DVDで見た古い映画」などのフォローが入るはずです

*6:この世界での「丸い花火」は下、水中からの視点でしか語られません。横向きに平べったい花火であったとしたら、下から見れば丸く写ってしまうため「この世界が正しい」と判断するのは多少の違和感があります。また泳いで世界から消え、自分の手から離れていく作品としてはやはり武内宣之の参加した「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」が思い出されます。